2010年09月30日 10:57
何故キミらは、伝統野菜の復活と普及にこだわるのか。儲かりもしない野菜栽培に何故、懸命に汗をかこうとするのか。それがスローフード的な使命だとしても、成功の目算はあるのか。そして何を目指し、何処に行こうとしているのか。
京野菜、加賀野菜、江戸野菜などが華々しくマスコミに登場し、それらに関わる人々の成功談に刺激されて、「よし、俺達も」と触発されているだけではないか。ここ数年来、問い続けてきた伝統野菜づくりへの取り組みに対する意義と疑問である。
そんな曖昧さに対して、「儲からなくてもいいんじゃない。子ども達の世代にバトンを渡して残せれば、それだけでいいんじゃない」という、仲間の声が胸を突いた。そしてハッとさせられた。
おそらく成功している京野菜なども、一部の有志がこのような想いで立ち上がり、奮闘したに違いない。そして結果として、普及ビジネスの仕組みが出来上がっていったのであろう。最初から一儲けしよう等という邪念はなかったはずである。これで数年来の疑問は吹っ切れた。
とにかく汗まみれでその野菜と対話してみよう。その野菜を多くの人に食べてもらおう。多くに子供たちに触ってもらおう。お店で少しでもいいから売ってもらおう。そしてこれらの野菜の長所や欠点を改めて見極めよう。次世代につなげてゆこう。昨年来から、畑で取り組んでいる伝統野菜づくりへの意義の答えである。
そんな心の準備をしながら、今年も伝統野菜づくりに挑戦することにした。そして当瓦版の2009年・VOL23で取り上げた「伝統野菜づくり奮闘記」の続編を発信することにした。新人百姓が新たな2年目の挑戦をしたその奮闘記である。

2010年度は1反(10アール)の畑を2名で栽培することになった。私の陣地は7アールほどに拡大した。少々欲張りの感じもしたが、昨年栽培することが出来なかった品種を、今年は是非挑戦したいと思い、陣地を確保した。
栽培する品種は以下の資料を参考にして決めた。新潟市、長岡市、下越地方から昨年に続いて選んだ。
新潟県伝統野菜一覧表 |
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| 新潟市 | 女池菜、白十全、鉛筆ナス、砂ネギ、五千石ネギ、小平方茶豆(黒埼茶豆)、寄居カブ、小池ゴボウ、関屋かぼちゃ、カキノモト |
| 長岡市 (長岡野菜) |
カキノモト(おもいのほか)、黒十全(梨なす)、だるまれんこん、体菜、長岡菜、白雪こかぶ、里芋、糸うり、ずいき、ゆうごう、肴豆、中島巾着(長岡巾着)、 かぐらなんば |
| 下越地方 | 赤かぶ、久保なす、白なす、刈羽豆(越後娘)、やきなす |
| 中越地方 | 城之古菜、曽根ニンジン |
| 魚沼地方 | 大崎菜、魚沼巾着 |
| 上越地方 | 越の丸 高田シロウリ |
| 佐渡地方 | 本カタウリ、千本ネギ、八幡いも |
1月、2月はまったく畑仕事がない。畑には年越しのニンニクと大根がひっそりと残っているだけだ。そして3月12日から畑が動き出した。眠っていた畑にトラクターを入れ、10本ほどの畝を立てて、Ca剤と堆肥をまいた。専業農家の山本秀樹さんに支援してもらった。耕しの作業が一番大変だが、機械を入れてもらい大助かりだ。
それと同時に今年の栽培計画をたてた。どの場所に、何を、どれくらい、何時からと大まかな表を作成した。連作障害なども考慮しなければならない。以下の表がそれである。
| 月 | 種まき | 苗植え |
| 3 | 寄居蕪(直播き)
白茄子、糸瓜、関屋かぼちゃ (ポット植え) |
里芋(土垂、石川早生) じゃがいも(3種) |
| 4 | 人参(直播き) 小松菜(直播き) 鷹の爪のポット植え 二十日大根(直播き) |
えんぴつ茄子 十全茄子 ブロッコリー 生姜 |
| 5 | ごぼう(直播き) 茶豆(ポット植え) スイートコーン(ポット植え) |
白茄子、関屋かぼちゃ、糸瓜の苗植え 西瓜(2種) トマト(3種) さつま芋(2種) 蒟蒻の生子植え 神楽南蛮 ピーマン 青しそ 胡瓜 ズッキーニ メロン(2種) 鷹の爪の苗植え ヤーコン キャベツ |
| 6 | さかな豆のポット植え 湯上り娘のポット植え |
下仁田ネギ
茶豆の苗植え |
| 7 | さなか豆の苗植え | |
| 8 | ||
| 9 | 大根の直播き
聖護院大蕪の直播き 赤蕪の直播き |
にんにく(翌年の6月収穫) |
| 10 | キャベツ | |
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新潟の伝統野菜以外にも視野を広げて、約30種の野菜栽培に挑戦することにした。種苗店で見かけると、どうしても栽培してみたくなるから不思議だ。
新潟の伝統野菜に限って言えば、今回の白茄子、関屋かぼちゃ、糸瓜の種は、昨年の収穫野菜から自家採種し、それをポットで育苗した苗を用いた。マンションのベランダで保温しながら育苗したものである。
ただし寄居蕪と神楽南蛮、えんぴつ茄子、十全茄子は市販の苗を購入した。種からの育苗が難しいからだ。伝統野菜以外の野菜は、市販の種や苗を購入して畑に下ろした。
育苗や種まき、栽培の収穫の時期や方法は、昨年の経験を生かして案外段取りよくやれた。その栽培記録の詳細を今回は省略する。
ただ特記したいことが数項目ある。以下の事柄である。
| 野菜名 | 収穫の個数 |
| 関屋かぼちゃ | 700個 |
| 白茄子 | 2,000本 |
| 糸瓜 | 100個 |
| 寄居蕪 | 10,000株 |
| 神楽南蛮 | 500個 |
| えんぴつ茄子 | 3,000本 |
| 十全茄子 | 1,000本 |
以上が2年目の学習内容である。徐々に伝統野菜の全容が見えてきた。
ただ9ヶ月間の畑での奮闘は、我が体力の限界を超えて過酷だった。とくに猛暑の7月から8月は、しんどかった。よくやるよね、と自身に言い聞かせながら畑に通い続けた。
専業農家であれば機械での栽培で、比較的楽な農作業だが、すべてが手仕事の我が農園作業はそうはいかない。足腰がガタガタしてくる。
畑に着くと作物が容赦なく収穫を待っている。ビールコンテナーに次々と納め、日陰の小屋に運び入れる。とても処分できる量ではない。7アールもあれば50家族を賄うことができるほどの大量になる。栽培するのは良いが、後の行方まで考慮しないと、せっかくの野菜が朽ちてしまうから大変だ。
今年は収穫した野菜の行先を様々な形で探し、人々に届けることに力を入れた。まずはスローフードの仲間対象の収穫体験会を実施した。
売れ残った寄居蕪3000株ほどの畑を開放したのだ。12名が集まり、ごっそりと全て収穫して持ち帰った。畑の一角で収穫祭を開き、伝統野菜談義でさらに盛り上がった。持ち帰った寄居蕪は、クチコミで多くの人に配布される。
また寄居蕪は、新潟大学付属小学校5年生の、課外授業の題材になり、テレビと新聞の取材を受けた。栽培農家の見学から、給食でのメニューの試食や、古町での子ども達の販売活動まで、マスコミで報道された。
我らもそのお手伝いに参加して、子ども達を支援した。学校は新潟市の寄居町にあり、寄居蕪の由来を学ぶには最適な題材である。このように新潟の多くの小学校では、新潟の伝統野菜を教材にする動きが多発していると聞く。
郷土の伝統を学ぼうとする題材へと、伝統野菜は意外な方向へと展開し始めている。
また伝統野菜の普及には再生産できる仕組みが極めて重要となる。ただのお遊びとしての伝統野菜の会であれば、仲間内だけの活動だけで事足るが、ある程度に規模を視野に入れる場合は、それなりのマーケティングが不可決である。
など、しっかりとした基盤づくりが急務になる。とくに販路の拡大と確保は、最も難しい課題である。
我ら「スローフード・にいがた」の伝統野菜復活・普及チームは、今年度は次の概要で活動を行なっている。
などである。
ただスローフードの会員が、食材として活用できるほどの野菜の種類と数はまだ供給できない。また今のところは、ボランティアの領域を出ていない。経済が回るまでにはいかないのが現実だ。
しかし伝統野菜への関心は、ここ2年来で随分高まってきた。ブースで販売すると多くの人たちが熱心に語りかけてくれる。とくに高齢者の反応は、当然ながら大きい。
食文化は100年単位で変革を受けて変わると言うが、今の若い世代にとっては、伝統野菜は食べたこともなければ、手に触れたこともない、言わば異文化の食材である。
それらの人を対象に、これから広げて、繋いでゆこうと言うのだから、壁が高いのは当たり前である。経済的文化活動だからと割り切れば、それだけのことであるが、一度途切れた野菜を復活させて、それを後世にまで残してゆくには、産官学の一体となった動きが不可欠である。
またスローフードではテッラマードレ(世界生産者会議)というネットワークが構築され、産官学がこぞって、生産者を支援していく仕組みが作られつつある。2年に1度の会議には、世界から5000人ほどの関与者が集い、「きれい」「おいしい」「正しい」というスローフード理念のもと、様々な課題の解決の糸口を討議している。
「スローフード・にいがた」もささやかだが伝統野菜の、種の保存と普及に力を入れており、まだまだとるに足らない活動の域であるが、イタリアや世界の人々と見えない糸で繋がっていることは、誇りであり、やる気の根幹を得ている。
もちろん2011年度も、さらに規模を広げて、普及活動を行なう予定である。とくにスローフードの接点となる飲食店を広げ、ガストロノモ(美食家)のネットワークを中心に、伝統野菜の食文化を市民に発信してゆく計画である。新潟版のテッラマードレである。
実際に畑と売り場で格闘しながら、伝統野菜と対話してきたこの1年間。1年間の活動の〆は、生産者との伝統野菜のフルコースの宴で終る。仲間の人気居酒屋「葱ぼうず」がその会場である。参加者は一応に、満ち足りた顔であった。

静かなる新潟の伝統野菜への挑戦は、9月の収穫を最後に今年の幕を閉じる。以上、続編のレポートである。
最後の晩餐に何を食べたいか、と聞かれたらどう答えるか。これは究極の質問である。私ならば即座に「秋刀魚めしと沢庵」と答える。それも母が作ってくれたものだ。いわば私のソウルフードだ。死ぬ間際に、一口食べて、回りの人々に淡々とお礼を述べて、静かに逝くならば、これほどの最後の晩餐はない。秋刀魚めしには私なりの食の尊厳がある。その秋刀魚めしについて追憶しておこう。まずは焼秋刀魚のある光景である。
秋刀魚といえば ボクらは直ちに、かの佐藤春夫の「秋刀魚の歌」を思い浮かべる。三角関係の悲哀の詩とも言われている。「哀れ秋風よ、情あらば伝えてよ、今日の夕飯に、ひとり、さんまを食いて、思ひにふける、・・・」の、中年男の悲哀じみた背中が見えるあの詩である。この詩のおかげで焼秋刀魚は、哀愁演歌の世界にデビューした。鰯や鯵にはこのような哀愁はないから、秋刀魚界では佐藤春夫様々であると言ってもいいだろう。
その証拠に、この歌を契機に焼秋刀魚は庶民の憧れになった。とくにこの哀愁から抜け出すために、お嫁さんをもらおうという男が続々と現れた。焼秋刀魚と新所帯という組み合わせが男達を魅了したのだ。分かるよォ~、分かりますねェ~、哀れ秋風だもんねぇ~。秋刀魚の焼く煙は秋風に乗ってこそまた詩情が深くなり、男達を刺激する。
しかし最近では、路地裏で炭火のコンロでもうもうと煙を出して、秋刀魚を焼くしあわせな光景はみられなくなった。焼くと団地組合から、レッドカードを付きつけられる。秋刀魚煙害という訳だ。しかも「お父さん、秋刀魚は無煙オーブンで焼くものですよ」と、軽く女房にいなされてしまう秋風の夕べなのである。
そうか、秋刀魚は隠密剣士みたいに、表に出てはいけないのだ。哀れ秋風などと、大袈裟に焼いてはいけないのだ。そういえば、秋刀魚が庭で焼かれなくなってから、近所付き合いが疎遠になった。お隣さんとの、秋刀魚の煙による連帯感がなくなったからだろう。
近所付き合いの断絶や親子の団欒の喪失は、実はこの路上の秋刀魚焼きが消えたのが原因だ。そんな気がする。昭和40年代の頃からだ。
また路上の秋刀魚焼きには、子供の頃の悲しい思い出が脳裏を過ぎる。悪戯をして叱られた子が、煙に泣きながら秋刀魚焼きの番をさせられたものだ。
「秋刀魚がちゃんと焼けるまで、焦がさないように番をしていなさい!」という罰則手伝いだ。炭火に落ちた油に急に火がつき、慌てて後ずさりしながら、団扇で消しにかかる光景は滑稽であり、哀しみの夕方でもあった。まさに火だるまの秋刀魚である。
当時の秋刀魚は高級魚であった。豊漁、不漁に左右されて我ら庶民の口には簡単には入らない代物であった。だから秋刀魚のある夕餉は、子供心にもリッチな気分になる。秋刀魚の夕餉は、お父さんが丸ごと2匹、6人の家族は夫々半匹ずつを分け合う。半匹と言っても頭付の上半身を選ぶか、下半身を選ぶかで、兄弟間での駆け引きがある。
さらに秋刀魚の腸の苦味の旨さは、子供のボクらにはただ苦いだけだった。あの苦味が解るまでには20年の歳月がかかった。
いまでこそ貯えも少しでき、秋刀魚も好きなだけ食べられるのだが、何となくあの時分の秋刀魚との味とは違う。どこかが違う。目黒の秋刀魚ではないが、我が内なる焼秋刀魚は煙とともに消えていったような気がする。心象的五感から遠ざかって行ったのだろう。
また秋刀魚といえば即座に「秋刀魚めし」を思い浮かべる。これを語らずして、ボクらの秋刀魚論はあり得ない。秋刀魚料理もいろいろあるが、やはりボクら貧乏育ちには「秋刀魚めし」が究極のごちそうになる。
作り方は簡単である。秋刀魚を塩焼きにし、身をほぐして骨を除き、ご飯と一緒に炊き込むだけだ。醤油や酒をすこし加えて炊き込むのがコツだ。腸も必ず一緒に炊き込め
ば、スパイスとなり野趣あふれる味わいとなる。千葉、銚子辺りが秋刀魚めし発祥の地である。
しかも一番美味いのは、やはり母の秋刀魚めしである。究極の「おふくろの味」であり「家族団欒の味」となる。秋刀魚めしさえあれば、おかずは何も要らない7人家族の団欒が、そこにはあった。あっと言う間に1升炊きの秋刀魚めしは、空っぽになる。
それから随分の時間が過ぎた。就職し、家庭を持ち、5人家族となってから、ふと思い出すのは、この母の秋刀魚めしのことである。スローフード運動に身を置きながら思い出すのもこの秋刀魚めしである。
今でも帰省するたびに「おばあちゃん、今晩は秋刀魚めしにしてよ」と所望するのが、集った家族兄弟の合言葉となる。
そして久しぶりの秋刀魚めしの夕餉が始まる。「おばあちゃん、おかわり、この秋刀魚めしの味は他の誰にも出せないね、絶対に」と、帰省のボクらはご機嫌だ。そのボクらの喜びを聞く母も、最近は歳のせいで身体が小さくなった。
そして「そうかそうか!」と涙ぐむ母である。山国生まれの小さな母が、どうして秋刀魚めしを覚えたのかは、いまだもってボクらの謎である。
今年は秋刀魚が不漁という。1匹500円くらいになる。海水温の異常現象で、秋刀魚が日本近海に近寄らないらしい。
それでもやはり秋刀魚めしは食べたい。近くの魚市場に行き、目の青い小太りの秋刀魚を求めてきた。そして母のレシピを真似て土鍋に仕込んでみたい。土鍋の蓋を卓上で開けると、パッと半世紀前のあの感動が飛び出すことだろう。このことを思うと思わず胸が熱くなる。最後の晩餐のメニューの選択に間違いはなかった。秋刀魚めしは我が究極のスローフードなのである。
いきなり質問しよう。諸君は青蜜柑が好きですか?ほかのどの果物よりも好きですか?青蜜柑が一緒に死んでくれと言ったら、その覚悟はありますか?
この質問に対して、すらすらと答えられる人は意外と多いはずである。何故なら、ボクらにとってコトの外、青蜜柑に対しては、深くて淡い思い出とドラマがあるからだ。だからこんな突飛な存問が繰り返されても、うろたえたりしないのだ。それなりの答えを用意する。
じゃあ、青蜜柑との不思議な関係とは何ですか。たとえば運動会と青蜜柑の関係なんかどうだろう。あの昼休みのお弁当風景は、1個の青蜜柑の匂いに、すべてが集約されていた気がするが、どうだろうか。
午前中の競技も終り、いよいよ昼食の時間となる。すると子供達は、母親のいる観覧席を目指して一目散に駆け寄る。
その昼食時に出て来るのが青蜜柑である。「これを何と心得おるか!温州の青蜜柑なるぞ!」と初見えする訳だ。握り飯や玉子焼きを食べた後のおやつである。
早速、青蜜柑の薄皮を下着を脱ぐようにやさしく剥き、赤い実を取り出す。そしてひと房を口に頬張れば、哀しいほどの甘酸っぱい香りが脳裏を突き刺す。しかも青蜜柑は、当時はハレの日でしかお目にかかれない贅沢モノだから是非もない。
その贅沢モノを囲んでの運動会の弁当は、ボクらの胸奥に生涯消え去ることがない。深い官能が五感を通して身体に刻み込んだ気がする。これを「青蜜柑の刷り込み」と言う。だから運動会には、永遠に青蜜柑が登場しなければならないのだ。
実にあの時の青蜜柑は美味かった。そして子ども心にも何故か、青蜜柑は切なかった。もちろんこのような日は、秋空がどこまでも澄み切っていたことを思い出す。
今でもスーパーで青蜜柑を見るたびに、運送会の光景がまざまざと甦ってくる。これをセンチメンタルジャーニーと言われようが、ボクたちは気にはしない。
運動会の次ぎは、やはり遠足と青蜜柑の関係であろう。当時の遠足は握り飯と水筒、そして少々の果物やおやつ持参が相場だった。バナナを持参する子もいれば、梨やリンゴの子もいた。丸川の10円ガムなどが全盛の時代であった。
また、おやつを持参できない子もずいぶんいた。貧しい家庭はいくらでもあった。しかしボクらは彼らを馬鹿にしたりいじめたりはしない。自分のおやつを彼らに分けたりするのが、むしろ当たり前の時代だった。その中で断然輝いたのが、やはりこの青蜜柑である。
しかもあの哀しいほどの青さと匂いが、少年と花子さんの心を揺さぶる。「おい!これ半分やるわ!」と、少年は無造作に青蜜柑を花子さんに手渡しする。
それを花子さんは恥ずかしそうに受け取り、なれない手つきで皮を剥き、うつむき加減に食べる。2人ともただただ無口である。しかしこれが「蜜柑の初恋」という、切ない生涯の関係が生まれた瞬間である。
うっ!何という青い時代の光景であろうか。思わず赤面する少年なのである。
このような場合は、青蜜柑でなければ絶対にいけない。青林檎でもいいが、まさかバナナを半分という風景じゃない。青い性、青い果物、青い空そして青い恥じらいこそが、脳奥に刻み込まれる切ない官能なのである。青蜜柑と遠足の二度と来ない永遠の瞬間となる。
そしてそれ以後すでに50年が経過した。少年は久しぶりの同窓会で、ばったりとその花子さんに出会った。昔の面影は少し残っていたが、その花子さんはドライフラワーのように輝いていた。
「君に貰ったあの青蜜柑を今でも忘れていないよ!」と、花子は少年に告白した。少年と添い遂げられなかった花子の哀しみを、青蜜柑が代弁したのである。それほどあの時の青蜜柑は彼女の脳裏に、ずっと染み付き続いて来たのである。
たかが青蜜柑ひとつである。しかし少年と花子さんにとっては、青かった人生の喜びそのものである。何にも変え難い魔法の果物なのである。
青蜜柑はやがて赤く熟し、朽ちて行くが、9月頃のほんの瞬時だけ手に取ることのできるこの感動がボクらを魅了してやまない。
今でも青蜜柑に出会うと、瞬時にしてあの運動会や遠足にタイムスリップする。それは悲しいほどに青蜜柑に恋したボクらの、青い命が輝く瞬間でもある。青蜜柑はその生き証人なのである。
俳句を習い始めて、様々な未知なる言葉や食べ物に出会った。雫余子(むかご)なる植物もそのひとつである。俳句に目覚めなければ、生涯会えない言葉だ。
里人の間では山芋ともいわれている、自然薯や長芋の蔓の葉腋に、自然に生じる珠芽が「むかご、ぬかご」と呼ぶ。言うなれば自然薯の子どもが雫余子である。
むかごの漢字は 「零余子」 と書く。ご存じの方には説明の必要はないが、「むかご」 とは自然薯が子孫を効率的に増やし残す目的で、つるの途中(葉の付け根)にたくさんつくる5mm〜10mm程度の小さなイモのことだ。葉の1つ1つにできるので、1つの蔓全体では、大小合わせて100個以上できる。
その小さな粒の一つ一つに山芋の香りとコクが凝縮されている。口の中に含み噛むと、外側の皮を破り、中からトロッとした山芋が出てくる。粗野だが上品な味がする。都会の公園などにも時々見かける。平地では自然薯づくりの畑などで採ることができる。
しかしどうしてこんな難しい漢字をあてたのか不思議でならない。しかも俳句人ならば、一度は詠う季語のひとつだから余計に不思議になる。
「子」が「余」って「零」という意味合いが含まれているのだろう。蔓にふぐりみたいに生り、風が吹くとパラパラと零れるから、そのような当て字になったような気がする。たしかに雫余子は指で触れるだけで地上に零れてしまう。
しかも風がくればパラパラと、とめどなく零れる。雫余子採りはまず地上の零れたものから集めるのがコツだと言われる所以だ。とにかく蔓離れの良い山芋である。
もちろん雫余子の蔦を下にたぐれば、地中の自然薯に突き当たるはずである。埋蔵金が地下に眠っているのである。
しかも自然薯を掘り出す作業も俳句の材料になる。深々と特殊な金具で穴を開けていき、牛蒡のような長くて歪な一本を掘り出すのは、素人では出来ない作業だ。やはりそれは自然薯堀りのプロに任せることにする。
さてこの零余子の味はいかなるものであろうか。生のまま2,3個口に放り込むと、やはりあの「とろろ芋」の味がする。いや、ずばり疑いもなく「とろろ芋」そのものである。
さらに塩胡椒して、フライパンで軽く炒めると酒のつまみに合う。小皿に転がして、爪楊枝で1個づつ突き刺して酒のあてにする。大の大人がみみっちい姿を見せることなるが、このみみっ ちさが実に良い。酒のみにしかわからない、快楽である。
皿の周りに、マヨネーズ、味噌、塩、柚子胡椒などを配置して、爪楊枝の零余子のトッピングとするのも、これまた極楽である。さまざまな酒の趣向が楽しめる。実に美味い。
さて、その珠芽を塩味でご飯に炊き込んだのが、野趣豊かな零余子飯となる。ただ放り込んで炊き上げるだけだから猿にでもできる。豆ご飯、栗ご飯と並んで、「日本3大・木の実ご飯」と言われている。
しかし「おーい!これがかの雫余子ご飯だぞぉ~」と、向う3軒両隣にふれて回るほどの大それたメニューではない。コンビ二弁当として広く登場させるほどのパワーもない。が、シーズンが来ると、どうしても食べたくなる不思議な一品である。

旅先の田舎の料亭では時折、このむかご飯を用意してくれる。お品書きにあれば「む・む・むかご飯ください!」と頼みたくなる。「わ、わ、わかりました!」と、女将が対応してくれるのも嬉しい旅路の思い出である。11月のわずか2週間ほどの限定メニューと聞く。粗野なメニューであるが決して貧ではない。疲れた時には元気をつけてくれる故郷の母のような馳走である。
また最近では里山の無人店に、この雫余子の袋詰めが並べられて売られている。ドライブのついでに手に入れるといいだろう。
日本人の新米にかける意気込みや期待は、群を抜いている。新米と聞くだけで思わず顔がほころぶ。「あなた、今日は新米よ、しかも新潟のコシヒカリよ!」「そうか、ありがたいなァ~」と、手を合わせたくなる。だからお米のことを「菩薩さま」と言う。
そういえば新米を詠んだ多くの俳句は、日本人の幸せ感を表現する。「新米=日本人のアイデンティティ」という暗黙の喜び定理が存在する気がする。
その炊き立ての新米を、待ってましたとばかりに、2階から子供たちが駆け下りくる。そしてにわかに、小さな幸せ夕餉が始まる。炊き立ての新米はお茶碗の中で、粒が光りながら立っている。これを新米の「男立ち?」と言い、お父さんを励ます比喩に使われる。
また、ほのかな湯気からは草の実の匂いが漂って、鼻を刺激する。この香りと湯気が我らの五感をいたく刺激する。あとは味噌汁と焼海苔、野沢菜さえあれば他に何も要らない。
この新米の収穫は、9月初旬には始まる。黄金色に輝きだすここ越後平野には、どこからともなく多くのコンバインが現れて、稲刈りが一斉に始まる。そして瞬く間に越後平野は裸になる。
しかし昔のように稲賭けをした「稲架ぶすま」は、もう見られなくなった。藁塚もとうに姿を消した。そしてあたかも何事もなかったかの様に、広大な枯田が黒々と横たわる。こしひかり王国の毎年繰返される光景である。
新潟と言えばもちろん即座に「こしひかり」と答えが返ってくる。一日の寒暖差が大きく、豊かな水に恵まれた魚沼産のこしひかりは、今なおブランド米の王者の位置を占めている。
また更なる新ブランドをめざした「こしひかりBL」の普及作戦も、官民の協力で一斉に切り替えが始まっている。この作戦の賛否両論はあるものの、旧来のこしひかりだけでは、もう新潟の米づくりは先がないのも事実である。
さらに地球の温暖化も米づくりに微妙な影を落とし始めているようだ。このまま温暖化が進めば、米の産地は北海道に移行せざる得ないとも言われ出した。現に新潟の数社は、北海道に生産拠点を移しだしている。「20年もすれば、新潟産の米は競争力を失うだろう。その前に我らは手を打たねばならない」とは、友人である米菓開発部のAさんの言である。
ああ、幸せだな、と一杯の至福な新米を楽しんでいる向うに見えてくる様々な時代背景。お米もまた食の多様性の波に呑まれようとしている。
また最近は減農薬・減化学肥料栽培が盛んだ。完全有機栽培米も登場して、支持を広げている。量産だけを目指してきた農薬米作りが、消費者にそっぽを向かれたからだ。
我ら新潟のスローフーダーたちも実は、付加価値の高い米づくりに挑戦している。「黒酢農法栽培米」のプロジェクトがそれだ。新潟の石山味噌醤油(株)(石山了治社長)が提唱する減々農法の優れた栽培法である。
希釈した玄米黒酢を稲に3回ほど、適宜に散布すれば、大幅に農薬や化学肥料が削減でき、美味い米をつくることができる。新潟大学のデータ―の後押しもあって、この農法は様々な栽培に応用され、広がっている。
我らがこの農法に注目したのは、新潟の月潟村の生産者との出会いからである。
「この黒酢米は本当にいいものですか?」
「うんじゃ、わしはこの米を家族に食わしたい一心で、作っておる!」
「じゃあ、今までは、家族の食べる米は、一般の米作りとは別栽培法ですか?」
「家族が食べる米には、農薬は使わんけん!」
この一言が我らを動かした。日本の米作りの歪と実態を目の前にしたからだ。この裏事情が徐々に消費者にばれてきたのが、最近の安全性への過度な反応となって現れている。食の安全はすべて事項より優先する。
もちろん農業技術も格段に進歩している。世界で一番消費量が多い日本の農薬も、毛嫌いするほどの危険性はなくなっている。農薬栽培=危険という図式はもはやひと昔の話である。
しかしやはり気にする人々は多く存在し、売れ行きを左右する。その不安を少しでも払拭できる期待が黒酢農法にはあった。また事実、その効果は顕著に現れた。
しかも米余りが深刻になり、減反がさらに進む実情から、質の高い米作りにシフトせざる得ない事情が重なっている。
この黒酢農法は新潟、佐渡、滋賀、秋田、岩手、千葉にも瞬く間に波及し始めた。石山味噌の養田武郎氏をリーダーとする普及活動が功を奏したのだ。しかも田圃や畑には虫や水中生物が戻ってきた。生物多様性にわずかながら貢献しているのだ。
これに相応して「家族や子供達に食べさせたい米」の普及を目指そうという人々も現われた。少しでも農薬や化学肥料を減らそうとする、「エコファーマー」と言われる農家の皆さんだ。一杯の新米のご飯の向こう側には、このようなスローなドラマが見え隠れする。スローフードはこのようなスローアグリに多大な支援と賛辞を送りたいと思う。
さて諸兄は、甘味のあるご飯を食べたことがありますか。特に新米のほのかな甘い味を、賞味したことがありますか。一粒一粒が輝く炊き立ての新米だ。
ご飯の一番美味い炊き方は土鍋炊きに限るだろう。一度食べたら、病み付きになる。炊き方は簡単である。

あとはひたすらいただくだけである。菜は茄子漬け、梅干し、のりたま、納豆など何でもいい。ただただ新米の命をいただけばよい。
そして新米の醍醐味は、やはりおむすびに尽きるだろう。しかも塩むすびである。越後の人たちはこの塩むすびを、こよなく愛している。冷えても米の美味さに自信を持っているからだ。「新米」という季語には、もうメロメロになるしかない我らである。
柿を食えば、必ず思い出す俳句と光景がある。上記の子規の句と故郷の秋の光景である。とくに日本の故郷には必ず柿の木が登場する。「柿の木のある家」というなつかしい映画もあった。それほどに柿は生活に密着していた。
子ども達のおやつもこの柿が活躍し、お腹を空かした小腹を満たした。そういえば柿泥棒も日常茶飯である。学校帰りによくやったものだ。またこの盗んだ柿の甘かったこと。富有柿だったと記憶している。その柿泥棒も、逮捕されることもなくすでに半世紀が過ぎた。
したがって我が内のスローな果物といえば、この柿が代表である。今回はこの柿について想いを述べておこう。なつかしき柿談義である。まずは柿の由来を整理しておこう。
柿の原種は日本原産の果物といわれ、16世紀頃にポルトガル人によってヨーロッパに渡り、その後アメリカ大陸に広まっていった。今では、「KAKI」は世界中の人に愛され、学名も「ディオスピロス・カキ(Diospyros Kaki)」、「KAKI」の名で世界中に通用する。
日本では縄文、弥生時代の遺跡から原種の柿の種が出土し、時代が新しくなるほどその量は増えている。かなり消費されていたことを伺わせる。貴重な食料資源だったのだろう。
ただし、今のように大きな柿は、奈良時代に中国から渡来したと考えられている。中国では約3000年前から柿があったそうで、紀元前2世紀頃の王家の墓から多数の柿の種が出土している。その頃は干柿で保存していた。
以上が柿の由来である。今我らが食べている大きな柿は、様々に品種改良された優れものなのだ。さらに大きく分けて甘柿と渋柿に分かれる。主な人気品種は以下の通りである。
甘柿全体では11万686t生産されているが、そのうち富有柿が60%を占め、南は九州から北は新潟県まで広い地域にわたって「甘柿の王様」に君臨している。
また昔から甘柿の特徴を表す言葉がある。「富有はあごで食べ、次郎は歯で食べ、たねなしは舌で食べる」というものだ。富有は果肉がやわらかく、次郎は硬めで、たねなしはねっとりとした感じがするということである。なるほど。言いえて妙である。
また柿のファンは派閥がたくさんに分かれている。甘柿派、渋柿派、そして甘柿派の中でも富有派、次郎派が2大勢力だ。「上品な風味で、あのコリコリした味わいがなんともいえない」というのが次郎派の代表的な見解である。「いやぁ、柔らかくてジューシーな味がたまらない」という富有柿派も負けていない。
されど僕は岐阜生まれだから当然、富有柿が好きだ。晩秋の青空に輝いていた、あのたわわな柿が今でも脳裏に染み付いている。
しかも柿は齧り付いて食べるものだった。種の周りのヌルヌルした果肉を舌で剥がし取り、種を口から遠くへ飛ばすのが楽しみだった。
また柿には干柿づくりという家族総出の作業もあった。渋柿の皮を剥いて、柿の蔕にタコ糸を巻いて後は竿に吊るすだけだが、干し終えた柿の暖簾は実にきれいだった。この干し柿は11月の風に晒されて、やがて飴色になり、白い粉が噴出してきたら食べ頃となる。窓開けて時々干柿の具合を確かめるのが楽しい日課だった。甘味に飢えていた時代だから、あのねっとりとした干柿の甘さは今も舌に残っている気がする。実に甘かった。

この渋柿の王様が新潟に存在する。「八珍」と呼ばれている平核無である。種のない柿があるということから、越後の七不思議に次いで、八番目に不思議なものとして「八珍」と名が付いた。新潟県新津市(旧中蒲原郡新津町)に300年近いとされる原木があり、今も大切に保存されている。
佐渡のおけさ柿の原種でもある。種がなく、甘くジューシーで、干柿にしてもとても美味だ。ちなみに渋柿の80%は和歌山、山形、新潟で生産され、10~12月にかけて出回る。我が新潟も柿王国の一翼を担っていると思えば、秋の到来が待ち遠しい。
柿のまつわる文藝もかなり多い。とくに武者小路実篤の「柿の賦」は何度も読み返す秀逸な作品である。
青春小説の大家が柿を詠むと、かくの如く詩情を放つ。
また短歌にも柿は登場してくる。その一部を紹介しておこう。
このように柿は、我らのごく身近な存在として愛され、親しまれている。柿の木から落ちると死ぬぞ、と戒められた記憶が、今も、柿の存在が凛として我が心の内にあることだけは、悲しいほどに確かなのである。
稲刈りが終った枯田にぽっねんと真っ赤に熟す柿の光景は、なつかしさと同時に寂しさの象徴でもある。とくに収穫もされずに取り残された柿は、なぜか故郷の母の姿と重なる。柿食えば思い出す来し方である。
ボクはバッテラが大好物だ。もちろん秋鯖も大好きである。じゃあ、バッテラと秋鯖のどちらがより大事かと問われたら、ボクは困惑するに違いない。大好物と大好きの違いを、400字詰めの原稿用紙に書けと言われたら、ボクの頭は更に大混乱を来すことになる。
そんな問答を繰り返していたら、「秋鯖は嫁に食わすな」と言う、世間さまのきついお言葉が聞こえきた。そうか、秋鯖はそんなに旨いのか!そう言えば秋茄子も同じ運命だと聞いているから余計に気にかかる。
しかもその世間さまの目を盗んでも食べたいのが、秋鯖というモノだ。食べたいと思ったら、もう居ても立ってもいられなくなる。「バッテラと秋鯖、バッテラに秋鯖!」と、夢にでてくる始末である。
じゃあ、余計なことは考えずに、まとめて「秋鯖のバッテラ」をいただく事にする。そのためには、まずは秋鯖を手に入れなくてはならない。その秋鯖が美味しいのは10月頃で、脂がたっぷりのっている時に限られる。旬が意外に短い。

秋鯖は、評判の人気魚「戻り鰹」と同列に並ぶ、海のブランド魚として付加価値が高い。しかも秋鯖は秋になると、沿岸や沖合いで面白いように釣れる。入れ食いという報告も来ている。
早速、乗り合い船で出かけることにする。はるか佐渡の島影をみながら釣竿を流してゆく。今日の日本海は波が穏やかだ。竿を入れてしばらくすると竿に手ごたえがくる。意外と早い反応である。
リールを巻き上げるとかなりの手ごたえがある。慎重に釣上げた秋鯖を舟底にとり込み、手で抑えると、「きゅう!」と鳴く声が聞える。肺から空気が出る音だ。土地の人は「鯖が泣く」という。
鯖には真鯖とごま鯖があり、秋は真鯖が美味いとは漁師のすすめである。食べ方は「刺身」「味噌煮」「塩焼き」「さば寿し(ばってら)」「柿の葉寿し」「鯖の姿寿し」などが一般的だ。
今日の釣果は目的の秋鯖が10匹と、鯵、キスが少々。さっそく秋鯖は3枚におろし、皮を剥き、小骨を取って3杯酢に2、3時間漬け込む。残りの秋鯖は、焼きものに回すことにした。
「秋鯖のバッテラが、もうすぐ食べられるぞ!」と思うと、鼻歌が飛び出しそうだ。「鯖の身の厚みは、1cmは欲しいなぁ!」「せめて京都の棒鯖寿司ぐらいの、ボリュームが欲しいなぁ!」「なぁ!なぁ!」を思い巡らすたびに、やはり京都の鯖寿司が脳裏に浮かんでくる。仕込んだ秋鯖が酢に熟れるまではまだ、時間が少しある。じゃあ、その時間を借りて、京都の鯖寿司について述べておこうと思う。
京都ではバッテラとは言わずに、素直に鯖寿司と言う。大阪あたりはバッテラと呼んでいるがそこはプライド高い京都のことである。しかも京都の鯖寿司には隠されたドラマが詰まっている。その辺が京都らしさである。
昔、日本海で捕れた鯖は、若狭湾の小浜から京都までの約70kmの山間の道を、一昼夜走り続け、泥だらけで運んだという。この道が有名な「鯖街道」である。
「鯖の生き腐れ」と言われるくらいに鯖は足が早く、京都に着く頃には、ほどよく醗酵が進み、ちょうど塩梅が良い状態になる。
京都に鯖寿司文化が生まれたのは、彼らと鯖街道のおかげなのである。もちろんいい値段が付いたのであろう。天皇家にも献上され、これが京都に鯖寿司が発達した歴史の経過である。その由来を引き継いでいるのが現存する京の棒寿しである。
その京都独特の棒鯖寿司の食べ方は、まず竹の皮を解き、そして厚めに切り分ける。その分厚い秋鯖の身を口に入れる。すると「こってりーさっぱり」とした芳醇な味が、どどっと口中に広がる。「おぉ、これが京の鯖寿司か、うめぇ!」と感激する瞬間だ。
遠く離れた今でも「おいしいどすぇ、お食べやす!」と、自信を持って勧める女将の顔が、ちらりと脳裏を過ぎる。いやぁ、実にいい塩梅の口福である。

1本が3000円~5000円の鯖寿司だが、誰も高いなどとは思わない。とくに鯖寿しの老舗「いづう」さんのそれは、天下逸品のそれである。手にとればずっしりと重く、歴史の重さを感じさせてくれる。
その他、吉野の柿の葉寿司、出雲の吾左衛門寿司など、足の早い鯖が逆に保存食として活用されている。金沢の焼き鯖寿しも是非食べておきたい逸品である。
さて、京都の話はこれくらいにして、「もうええじゃろ!」とボクは、酢漬けの秋鯖の仕込み具合を確かめ、そっと秋鯖を3杯酢のプールから引き上げる。
後はスシ飯の上に厚めの秋鯖を乗せて、竹の皮で包み込めば、基礎工事は終りだ。熟成の慣らす時間は一晩が必要で、ご開帳は明日である。脂の乗り切ったムチムチの秋鯖寿司は、静かに一晩の眠りに就かせまる。そして今夜も「秋鯖寿司、秋鯖寿司」と唸りながら、夢をみるのである。
鯖寿しに見る悠久な時空のドラマの話である。もうそろそろいいかな。ごっくん!
