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2008年04月01日 09:45

VOL 11

1食のゆくえを考える(5)

3-8、和食のゆくえ

分かっているようで、それでいてはっきりと定義できない不思議な「和食」について考えてみよう。「和食って何だ!」と問われると、おそらく答えに窮する。
まず和食の定義しておこう。和食は一般的には、次のように分類される。
1、広義の和食
  →日本列島に渡来した様々な食材や料理法を、日本人の味覚に変容させた、「和して」できた「和の食」である。「和風料理」ともいう。
 →カツ丼、コロッケ定食、ラーメン、カレーライス、照り焼きバーガーも立派な和風料理。


2、 狭義の和食
 →伝統的な和食を指す。
 →主食(米もしくは雑穀類)+1汁1菜(味噌汁、漬物)の「素食」。
 →世界中で理想的な健康食として評価されているのは、この伝統的な和食のことで、広義な和食が人気なのではない。

この1と2を併せて、我々は「和食」と呼んでいる。
 洋食のコロッケも、パンに代わってご飯、スープに代わって味噌汁となると、たちまち和風定食になる。カツ(西洋料理)もご飯の上に載せて、醤油の出汁をかければ、もう立派な和食が出来上がる。このように1と2に共通する食材が実は「米」である。米を中心に、我が日本料理が組み立てられているのだ。
 では「米」が何故「和」の中心として、崇められるのだろうか。その「和」とは一体何者なのだろうか。米と日本民族をつい最近まで、強固に結びつけてきた磁力パワーの「和」について、文化的な側面を、我々は理解しておかねばならない。
 広辞苑には「和」について以下のように書かれている。
 「和」とは
  →穏やか、なごやか、のどか、仲良くする、あわせること、
  そろえること、二つ以上の数・式を加えて得た値、大和国の意、
   日本、倭、日本製・日本風・日本語

の意とある。
 しかも「和」は「禾(ノギ)」に「口」で構成されている。「禾」は稲穂のことだ。「口」は声をあわせて揃えるという意味である。つまり「和」とは、「心を合わせて稲をつくる」という言霊なのだ。
 それは米(稲作)を中心とした集団社会の一員として、ムラの「輪」の中で、「私や我」を疎外して、集団のために忠誠を誓うという意味を持つ。
 個人がばらばらで勝手に水を引いたり、田植えや稲刈りにみんなが協力しなければ、たちどころに水田栽培は支障をきたすからであろう。この集団心理や掟が、磁力パワーとなって、日本人特有の「和」の心象を形つくってきたと考えられている。行動規範ともいえるものだ。
 それを表現すると次のようになる。
   日本人社会=○の中の社会=輪の中の社会=和の社会
この行動規範を守らせるのが、米の魅力やエネルギーだったのだ。米は豊かさの象徴であり、権力の源であり、未来への希望の糧だからだ。
 だから人々は米の威力やエネルギーを手にするために、「和」の共同体から排除されることを恐れた。しかも個人は「和」の中に安住して、義理を果たせば、ゆり篭から墓場まで共同体の中では無事に過ごせるから、なおさらのことである。こうして我が日本人の独特な精神構造は、「和をもって尊しとなす」を一義にしてきたのだ。
 この「和」の中心にあるのが「米」である。したがって自ずから「米」を主食とする1汁1菜(1汁3菜)が伝統的な和食ということになる。これで日本社会の和の構造は、米を媒介にして成立してきたことは理解できた。
 そして和食のルーツは古代食、平安貴族の食、禅寺の食、武家の食、江戸の食、近世の食と、宗教や政治の影響を受けながら、昭和天皇家の食卓へと繋がってきたのである。

 またこの「和」の民族性はやがて、海外からの輸入文化や技術を素早く、日本流にアレンジする異才へと繋がっていくことになる。日本人が明治以降、列強の西洋文化を貪欲に取り入れて、やがて世界のモノつくりの頂点に立つことができたのも、この「和」の磁気パワーのおかげなのである。
 日本人は「物まね」の天才と言われる民族的な背景が、実は「和」(ごちゃまぜにして新しく作りかえる能力)の精神構造が、大きく関わっているとみていいだろう。
 さてもうひとつ大切な日本民族の食性について、お話しなければならない。それは「日本人の食べ物の消化機能は、豊富なジアスターゼに頼っている」という、酵素の特性についてである。要は日本民族は、米を食べるための体になっているのである。パンや肉に合う体ではないのだ。
 天与の食性として我ら日本人には、ダントツに米がベストな食べ物であるのだ。これは多くの先人達が、民族的、栄養学的、医学的な見地から導き出した結論である。簡単にいえば、米の食性に合う遺伝子が組み込まれているのである。
 となると、米を食べなくなった日本人には当然、異変が起こる。1人、年間で60Kg程度に激減しているから、そのツケが様々に形で表れてきて不思議でない。
    その1、伝統的な和食が忘れ去られて、家庭の和も薄れてきた
    その2、生活習慣病の若者世代への蔓延(糖尿病―2,000万人規模に)
    その3、アトピーの子供の激増
       その4、米から日本人が離れ、家族の食卓が崩壊すると、
       「国家」もまた、その存在基盤を危うくする

など、米離れによる姿なき体の崩壊の影が、我らにしのび寄っていると言っても決して大袈裟ではない。多くの識者が日本食、とくにご飯食を勧める背景がこの辺にあるとみていいだろう。
 さればご飯を中心の和食をとれば、家庭の団欒も「和」も、荒れた食卓も改善されるかという帰納論が持ちあがる。本当にアトピーの子供も減少するかということにも、医学的な検証が求められることになる。ご飯さえ食べていれば、ハッピーになれるとなれば、こんな簡単な処方箋は他にはないからだ。
 その辺の疑問に答えているのが、新潟大学医学部の安保徹教授の「免疫力を高める食」の研究成果である。多くの著書があり、先生のどこの講演会はいつも満席の状態である。日本人の食性と身体を知り尽くした、西洋医学にはない新しい医療技術として注目されている。
さて「米を食べたら馬鹿になる」「肉を食わない民族は、貧弱でみすぼらしい」「牛乳は万能食だ」などと、根も葉もない風評に惑わされてきた我らだが、今こそ、「和食」のすばらしさに誇りと感謝を持つべき時がきている。それが実は「日本のスローフード運動」の根っこにある哲学とも重なってくるのである。
 すべての面で世界中から注目されている「我が伝統の和食」は、間違いなくこれから世界に広がっていく。現に欧米では、日本食は理想の健康食として急速に広がっていると聞く。
 しかしその価値に気付かない我ら日本人。しかも新潟は「米のまほろば」だ。その米からは「清酒」、「味噌」、「お餅」、「米菓」、「和菓子」、「おむすび」、「飯い鮨」などが輩出されて、食を豊かにしている。この幸を尊ばなくて、何の越後人たるべしや。食いあらためよ、我ら豊葦原瑞穂の国の日本人よ!

ここ

3-9、旬のゆくえ

 日本食の基本は地元の旬の食材を、そのまま生かしきることが特徴だ。それが四季を生きる日本人の身体に合った知恵であり、食性にかなうとされている。
 身土不二なる教えもここからきている。我らが旬の食材を口にする時は、自然に心がなごみ、思いは田畑や故郷へと飛ぶのはそのためである。ほっとする・・と言ったほうが正確な表現かもしれない。
 しかしその旬ですら我らの生活から消えかかっている。もはや旬を味わうことは、贅沢な範疇に入る。今まで当たり前だった旬を味わう権利が、知らず知らずのうちに奪われて喪失しているのだ。
 そしてその喪失感が多くの日本人を、食に対する不安へと駆り立てている気がする。まさにスローフード運動はそこを突こうとしている。旬の権利を奪い返そうとしているのだ。
 今回はその旬について、とくに旬と健康の関係について改めて考えてみたい。
 まず「旬」を定義しておこう。
  <旬とは?>
  ○旬とは、ある特定の食材において、

    他の時期よりも新鮮で美味しく食べられる時期のこと。
  ○旬には出始めの「走り」、最盛期の「盛り」、

    そろそろ終わりになる「名残り」がある
  ○旬の期間は10日間くらい
  ○旬の食材の特徴
     →収穫量が多いので価格が安い、栄養価が高い
      人間の食性にかなう。季節に合わせた人間の身体をつくる力がある
      もっとも美味しい(ただし寝かせると美味くなるものもある)

 日本列島は縦に長く、旬の時期が微妙にずれてくる。それを表すのが「桜前線」「紅葉前線」などといわれる美しい言葉だ。季節の南下あるいは北上を表現している。
 当然、旬の食材にもこの前線が存在する。野菜、果物、魚介類、畜産類など自然界は、旬のカレンダーを持つごとく、時間のテーブルの上での輪廻転生を繰り返している。しかもそのテーブルに我らも自然の一部として乗って、食の連鎖の頂点に存在しているのである。
 いわば人間の身体も精神も、実は「旬」に生かされている存在にすぎないのだ。「旬」という概念を別の角度から捉えると、そんな宇宙の摂理が見えてくる。
 こうなるとこの「旬」といいう概念で一番重要なのが、「旬と人間」の関係であることが分かる。旬の食べ物が安くて、美味しくて、栄養があることは誰でも理解している。

 しかし「旬」が我らの精神活動や健康にも多大な影響を及ぼしていることを、このファストモードの社会は忘れかけている。ここが問題となる。
 また旬という自然のカレンダーは、太陰暦がもっとも近いという。月齢を基準にした農事暦である。日本の言霊の至宝の歳時記は、旧暦すなわち太陰暦を基準に季語として分類をしている。農事暦から食材の「旬」の時期を定めるのは、理にかなったこととなる。
 そして日本の「24節気と食」の関係は、改めてその奥深さに目を見張り、感嘆させられる。
 さて「旬と人間」とくに「旬(季節)と身体」について、レポートをしよう。旬の食材が我らの身体に及ぼす機能についてである。


<旬の食カレンダー>

<旬と身体>
・春は目覚めの季節。
・気候は陰から陽へ変わり、萌えいずる新芽が身体の目覚めを促進する。
・若菜の苦味で、身体は開かれ緩み、全細胞が活発に動き出し、新鮮な血液が作り出される。

<24節気>
2月4日(立春)
2月19日(雨水)
2月24日(人日の節供)
3月6日(啓蟄)
3月18日(春の彼岸入り)
3月21日(春分)
4月5日(清明)
4月19日(桃の節供)
4月20日(穀雨)

<旬の食材>
○ 野菜、果物
わらび、たらのめ、たけのこ、新たまねぎ、春きゃべつ、うど、セロリ、ふきのとう、こごみ、みつば、せり、あさつき、わかめ、そらまめ、
○ 魚介類
真鯛、マナガツオ、飛び魚、鰆、めばる、山女、ヒメマス、白魚、あさり、はまぐり


<旬と身体>
・大量の汗を出して新陳代謝が盛んになり、排毒されて身体がきれいになる季節。
・陰性な食材が生長する自然界の活動が活発になる。
・身体を冷やして、夏の暑さから守ってくれる野菜や果物が次々に実る。身体の脂肪をどんどん燃やす。

<24節気>
5月6日(立夏)
5月21日(小満)
6月6日(芒種)
6月19日(端午の節供)
6月22日(夏至)
7月7日(小暑)
7月23日(大暑)
8月8日(立秋)
8月13~16日(お盆)
8月19日(七夕の節供)
8月23日(処暑)

<旬の食材>
○ 野菜、果物  
とまと、なす、きゅうり、ししとう、たまねぎ、とうもろこし、さやいんげん、みゅうが、しそ、じゃがいも、ピーマン、冬瓜、レタス、モロヘイヤ、ゴーヤ、かぼちゃ、新ごぼう、昆布 枇杷、梅、さくらんぼ、桃、すいか、瓜
○ 魚介類
あいなめ、鰹、まあじ、たちうお、鯉、虹鱒、鮎、うなぎ、鱧、すずき、するめいか


<旬と身体>
・気候は陽から陰に、ゆっくりと変わり、身体にエネルギーを蓄える時期となる。
・でんぷんたっぷりの五穀が実り、脂肪豊富な木の実が身体の内側から温める役目をする。それを食べて冬の寒さに備えた身体をつくる。
・さらに表皮は閉じて、熱も栄養も逃がさない身体になっていく。

<24節気>
9月8日(白露)
9月20日(彼岸の入り)
9月23日(秋分)
10月6日(中秋の名月)
10月8日(寒露)
10月23日(霜降)
11月3日(十三夜)

<旬の食材>
○ 野菜、果物
れんこん、小松菜、ごぼう、小豆、大豆、大根、 さつまいも、しいたけ、しめじ、まいたけ、白菜、ねぎ、人参、青梗菜、里芋、山芋、秋茄子、松茸 りんご、ぶどう、木の実(くるみ、ごま、椎の実) 柿、栗、いちじゅく、梨、メロン、
○ 魚介類  
秋刀魚、鯖、鮭、ししゃも、ほっけ、鰹、牡蠣


<旬と身体>
・陰の気が強い冬は、身体を休ませ、心を遊ばせる季節。
・適度に脂肪を蓄えた身体は、寒さをものともしない。
・太陽の光を蓄えた乾物や温かい鍋物や粥が内から身体を温める。
・蓮根などの根菜は身体を温める働きがあり、寒い時期を乗り切る力を与える。

<24節気>
11月7日(立冬)
11月22日(小雪)
12月7日(大雪)
12月22日(冬至)
12月31日(大晦日)
1月1日(元旦)
1月6日(小寒)
1月11日(鏡開き)
1月15日(小正月)
1月20日(大寒)
2月3日(節分)

<旬の食材>
○ 野菜、果物  
水菜、春菊、人参(保存)、ブロッコリー、大根(保存)、ほうれん草、白菜(保存)、ねぎ(保存)、干し野菜・山菜(ぜんまい、干し柿、干し大根・・)、   塩漬け野菜・山菜、木の実や種子、里芋(保存)   みかん、
○ 魚介類
たら、ぶり、あんこう、ひらめ、かに、あまだい、きんき、さわら、まぐろ、真鯛、公魚、

 太陰暦と旬の食材、24節気をからめて俯瞰すると、我ら人間がいかに大自然に生かされているかが身にしみてくる。しかも一年中出回っている「無国籍、無季節」な食材を分別もなく食卓に上げていることの、横暴さに愕然とさせられる。
 この「旬」を知りたければ、近くの朝市や産直場に足を運ぶといいだろう。まさしく朝市で得られる元気やエネルギーは、この「旬」そのもののパワーなのだと筆者は最近実感している。得がたい発見である。
 まずは月齢暦(太陰暦)を部屋に貼ってみよう。毎日の生活と食卓が旬と共に動いていく、その実感と感動を得ることができる。旬に乾杯!


2スローでウオッチング(11)

1、六十路も半ばを越すと、自分の「死に際」が気にかかる。何時果てるかわからない恐ろしさと寂しさも募ってくる。この不安や焦燥感はその歳になった者しか分からない。まさに無間地獄だ。
さらにいかに寝たきりにならず、楽に死ぬるのかと言った「死ぬことの教養」に関する書物は多く書店に並ぶ。それを読めば一瞬は視界が開けたように見える。まるで雨降りの車のワイパー効果のように視界が見えてくる。
しかし日が経つとまた見えなくなる。この繰り返しが続くのである。さほどに「死ぬことの教養」を身につけることは難しく、永遠のテーマである。そのような迷いの中で、ハッとする逸話に出会った。
それはアマゾンに住むインディオには、寝たきり老人はいないという、新潟大学の安保先生の逸話である。ではなぜ寝たきり老人が皆無なのであろうか。
その答えは、老人は死期を悟ると食を断ち、1週間ぐらいかけてゆっくりとお迎えを待つからだそうだ。決して身体に栄養を入れない。
食を断つと人間の体の機能は穏やかになり、苦しみや痛みがなくなるという。しかも頭はすっきりとしているから、家族への分かれの挨拶もしっかりとできる。現代の免疫学で解き明かされた最高の往生際だとは、安保先生の言である。
そういえば僕の大祖母は97歳で、自ら食を断って、苦しみもせず1週間で旅立っていった。その満ち足りた顔を今も忘れることがない。これも「死の教養」のひとつであろう。
2、食品の値段が上がっている。もともと安すぎた価格だから、今の2倍くらいが適正だという人もいる。「価格は据え置き」で、「安全・おいしい・新鮮・やすい」などと、わがまま言い放題を、この際だから見直すべきというのである。
こうなると自炊に切り替える人も増えてくる。材料を選べない加工食品と違い、自分で食材を選ぶとなれば、安心や安全の担保や知産地消の改善につながることにもなる。もちろん一度覚えた他人依存のわがままな生活を、変えることは極めてむつかしい。
しかし安すぎる食品の価格の適正化が農業を救い、家庭の料理の復活にも寄与する。今更自炊などといえば、お前は何を考えているのかと非難されそうだが、食品価格の高騰をチャンスとして捉えれば、賢い人々には異論がないはずだ。国産品は割高だという認識は、もはやいい訳にはならない。週に2,3度は厨に立とう。
3、新潟の伝統野菜を訪ね歩いている。青山ネギ、関谷の南瓜、寄居に蕪などである。すでに絶滅寸前の種もあり、急がねばならない。
そんな折に西区の農家から「種苗屋さんを訪ねてみたら」と、いうアドバイスをもらった。的確である。早速訪ねることにした。
 「青山ネギは、今じゃ、誰も作っておらんじゃ」というタネ屋さんのおばあちゃんの情報。2,3のタネは買い求めたが、青山ネギはその他を探ることになった。
急速にハイブリット化(F1)している種苗の世界を目の当たりにして、週末農業を目指すボクにとって、またまた地貌ほじくりの作業が続く。
4、 椿、榎、柊という漢字はいずれも「木」扁と季節語で構成されている。椿は春の木という具合に表現される。
ところが「木」編に「秋」という漢字はない。さしずめ秋の木とならば、なにがふさわしいだろうか。どうでもいいこと事だが、気になりだすと止まらなくなる。
5、 吉野家の牛鍋定食を、向かい合って食べている老夫婦がいる。2人とも70歳は超えている気品のある老カップルである。黙々と食べている。 しかもテーブルの上には1,060円の現金がすでに支払伝票と一緒に置いてある。実に微笑ましい。 時折、女性が自分の肉片を男性の皿に、箸で継ぎ足している。それを頷いて受け入れ、また黙々と箸をすすめる男性。実にスローな食卓風景である。 年老いたカップルにとっても、吉野家の牛鍋定食は違和感が全くない。久しぶりに心温まるスローなファストフードに出会った。 「お客さん、牛丼の大盛でしたね!」の声に、ハッと我に返るボクでした。