2008年04月01日 09:45
この1と2を併せて、我々は「和食」と呼んでいる。
洋食のコロッケも、パンに代わってご飯、スープに代わって味噌汁となると、たちまち和風定食になる。カツ(西洋料理)もご飯の上に載せて、醤油の出汁をかければ、もう立派な和食が出来上がる。このように1と2に共通する食材が実は「米」である。米を中心に、我が日本料理が組み立てられているのだ。
では「米」が何故「和」の中心として、崇められるのだろうか。その「和」とは一体何者なのだろうか。米と日本民族をつい最近まで、強固に結びつけてきた磁力パワーの「和」について、文化的な側面を、我々は理解しておかねばならない。
広辞苑には「和」について以下のように書かれている。
「和」とは
→穏やか、なごやか、のどか、仲良くする、あわせること、
そろえること、二つ以上の数・式を加えて得た値、大和国の意、
日本、倭、日本製・日本風・日本語
の意とある。
しかも「和」は「禾(ノギ)」に「口」で構成されている。「禾」は稲穂のことだ。「口」は声をあわせて揃えるという意味である。つまり「和」とは、「心を合わせて稲をつくる」という言霊なのだ。
それは米(稲作)を中心とした集団社会の一員として、ムラの「輪」の中で、「私や我」を疎外して、集団のために忠誠を誓うという意味を持つ。
個人がばらばらで勝手に水を引いたり、田植えや稲刈りにみんなが協力しなければ、たちどころに水田栽培は支障をきたすからであろう。この集団心理や掟が、磁力パワーとなって、日本人特有の「和」の心象を形つくってきたと考えられている。行動規範ともいえるものだ。
それを表現すると次のようになる。
日本人社会=○の中の社会=輪の中の社会=和の社会
この行動規範を守らせるのが、米の魅力やエネルギーだったのだ。米は豊かさの象徴であり、権力の源であり、未来への希望の糧だからだ。
だから人々は米の威力やエネルギーを手にするために、「和」の共同体から排除されることを恐れた。しかも個人は「和」の中に安住して、義理を果たせば、ゆり篭から墓場まで共同体の中では無事に過ごせるから、なおさらのことである。こうして我が日本人の独特な精神構造は、「和をもって尊しとなす」を一義にしてきたのだ。
この「和」の中心にあるのが「米」である。したがって自ずから「米」を主食とする1汁1菜(1汁3菜)が伝統的な和食ということになる。これで日本社会の和の構造は、米を媒介にして成立してきたことは理解できた。
そして和食のルーツは古代食、平安貴族の食、禅寺の食、武家の食、江戸の食、近世の食と、宗教や政治の影響を受けながら、昭和天皇家の食卓へと繋がってきたのである。

またこの「和」の民族性はやがて、海外からの輸入文化や技術を素早く、日本流にアレンジする異才へと繋がっていくことになる。日本人が明治以降、列強の西洋文化を貪欲に取り入れて、やがて世界のモノつくりの頂点に立つことができたのも、この「和」の磁気パワーのおかげなのである。
日本人は「物まね」の天才と言われる民族的な背景が、実は「和」(ごちゃまぜにして新しく作りかえる能力)の精神構造が、大きく関わっているとみていいだろう。
さてもうひとつ大切な日本民族の食性について、お話しなければならない。それは「日本人の食べ物の消化機能は、豊富なジアスターゼに頼っている」という、酵素の特性についてである。要は日本民族は、米を食べるための体になっているのである。パンや肉に合う体ではないのだ。
天与の食性として我ら日本人には、ダントツに米がベストな食べ物であるのだ。これは多くの先人達が、民族的、栄養学的、医学的な見地から導き出した結論である。簡単にいえば、米の食性に合う遺伝子が組み込まれているのである。
となると、米を食べなくなった日本人には当然、異変が起こる。1人、年間で60Kg程度に激減しているから、そのツケが様々に形で表れてきて不思議でない。
その1、伝統的な和食が忘れ去られて、家庭の和も薄れてきた
その2、生活習慣病の若者世代への蔓延(糖尿病―2,000万人規模に)
その3、アトピーの子供の激増
その4、米から日本人が離れ、家族の食卓が崩壊すると、
「国家」もまた、その存在基盤を危うくする
など、米離れによる姿なき体の崩壊の影が、我らにしのび寄っていると言っても決して大袈裟ではない。多くの識者が日本食、とくにご飯食を勧める背景がこの辺にあるとみていいだろう。
さればご飯を中心の和食をとれば、家庭の団欒も「和」も、荒れた食卓も改善されるかという帰納論が持ちあがる。本当にアトピーの子供も減少するかということにも、医学的な検証が求められることになる。ご飯さえ食べていれば、ハッピーになれるとなれば、こんな簡単な処方箋は他にはないからだ。
その辺の疑問に答えているのが、新潟大学医学部の安保徹教授の「免疫力を高める食」の研究成果である。多くの著書があり、先生のどこの講演会はいつも満席の状態である。日本人の食性と身体を知り尽くした、西洋医学にはない新しい医療技術として注目されている。
さて「米を食べたら馬鹿になる」「肉を食わない民族は、貧弱でみすぼらしい」「牛乳は万能食だ」などと、根も葉もない風評に惑わされてきた我らだが、今こそ、「和食」のすばらしさに誇りと感謝を持つべき時がきている。それが実は「日本のスローフード運動」の根っこにある哲学とも重なってくるのである。
すべての面で世界中から注目されている「我が伝統の和食」は、間違いなくこれから世界に広がっていく。現に欧米では、日本食は理想の健康食として急速に広がっていると聞く。
しかしその価値に気付かない我ら日本人。しかも新潟は「米のまほろば」だ。その米からは「清酒」、「味噌」、「お餅」、「米菓」、「和菓子」、「おむすび」、「飯い鮨」などが輩出されて、食を豊かにしている。この幸を尊ばなくて、何の越後人たるべしや。食いあらためよ、我ら豊葦原瑞穂の国の日本人よ!
ここ

日本食の基本は地元の旬の食材を、そのまま生かしきることが特徴だ。それが四季を生きる日本人の身体に合った知恵であり、食性にかなうとされている。
身土不二なる教えもここからきている。我らが旬の食材を口にする時は、自然に心がなごみ、思いは田畑や故郷へと飛ぶのはそのためである。ほっとする・・と言ったほうが正確な表現かもしれない。
しかしその旬ですら我らの生活から消えかかっている。もはや旬を味わうことは、贅沢な範疇に入る。今まで当たり前だった旬を味わう権利が、知らず知らずのうちに奪われて喪失しているのだ。
そしてその喪失感が多くの日本人を、食に対する不安へと駆り立てている気がする。まさにスローフード運動はそこを突こうとしている。旬の権利を奪い返そうとしているのだ。
今回はその旬について、とくに旬と健康の関係について改めて考えてみたい。
まず「旬」を定義しておこう。
<旬とは?>
○旬とは、ある特定の食材において、
他の時期よりも新鮮で美味しく食べられる時期のこと。
○旬には出始めの「走り」、最盛期の「盛り」、
そろそろ終わりになる「名残り」がある
○旬の期間は10日間くらい
○旬の食材の特徴
→収穫量が多いので価格が安い、栄養価が高い
人間の食性にかなう。季節に合わせた人間の身体をつくる力がある
もっとも美味しい(ただし寝かせると美味くなるものもある)
日本列島は縦に長く、旬の時期が微妙にずれてくる。それを表すのが「桜前線」「紅葉前線」などといわれる美しい言葉だ。季節の南下あるいは北上を表現している。
当然、旬の食材にもこの前線が存在する。野菜、果物、魚介類、畜産類など自然界は、旬のカレンダーを持つごとく、時間のテーブルの上での輪廻転生を繰り返している。しかもそのテーブルに我らも自然の一部として乗って、食の連鎖の頂点に存在しているのである。
いわば人間の身体も精神も、実は「旬」に生かされている存在にすぎないのだ。「旬」という概念を別の角度から捉えると、そんな宇宙の摂理が見えてくる。
こうなるとこの「旬」といいう概念で一番重要なのが、「旬と人間」の関係であることが分かる。旬の食べ物が安くて、美味しくて、栄養があることは誰でも理解している。

しかし「旬」が我らの精神活動や健康にも多大な影響を及ぼしていることを、このファストモードの社会は忘れかけている。ここが問題となる。
また旬という自然のカレンダーは、太陰暦がもっとも近いという。月齢を基準にした農事暦である。日本の言霊の至宝の歳時記は、旧暦すなわち太陰暦を基準に季語として分類をしている。農事暦から食材の「旬」の時期を定めるのは、理にかなったこととなる。
そして日本の「24節気と食」の関係は、改めてその奥深さに目を見張り、感嘆させられる。
さて「旬と人間」とくに「旬(季節)と身体」について、レポートをしよう。旬の食材が我らの身体に及ぼす機能についてである。
<旬の食カレンダー>
| 春 |
<旬と身体> |
<24節気> |
<旬の食材> |
| 夏 |
<旬と身体> |
<24節気> |
<旬の食材> |
| 秋 |
<旬と身体> |
<24節気> |
<旬の食材> |
| 冬 |
<旬と身体> |
<24節気> |
<旬の食材> |
太陰暦と旬の食材、24節気をからめて俯瞰すると、我ら人間がいかに大自然に生かされているかが身にしみてくる。しかも一年中出回っている「無国籍、無季節」な食材を分別もなく食卓に上げていることの、横暴さに愕然とさせられる。
この「旬」を知りたければ、近くの朝市や産直場に足を運ぶといいだろう。まさしく朝市で得られる元気やエネルギーは、この「旬」そのもののパワーなのだと筆者は最近実感している。得がたい発見である。
まずは月齢暦(太陰暦)を部屋に貼ってみよう。毎日の生活と食卓が旬と共に動いていく、その実感と感動を得ることができる。旬に乾杯!

