新着トピックス


カテゴリー


バックナンバー


2008年04月01日 09:30

VOL 10

○なつかしき未来食(DFF)教室(1)

 今月号から新たな連載を始めます。06年からスタートした「スローフード・にいがた」の料理研究会のメニューフォルダのデータを公開いたします。
 研究テーマは以下のコンセプトを中心に、郷土料理の新たな味わいを楽しむものです。


 新潟の素材、郷土料理レセピ、季節などを「和洋中」の新たな形で表現し、それを地酒で楽しみます。郷土料理が年々忘れ去られていく中、それを嘆いても仕方ありません。退化するにはそれ相応の原因があります。
 時代の嗜好や家族の現場に合わせて、郷土料理も不易流行を繰り返すべきです。なつかしき未来食とは、そのような時代に合わせて進化していく、郷土料理のありようを表現した食体系を指します。「スローフード・にいがた」自慢の講師陣による新たなスローフード体系を味わってください。   

(佐藤淳子講師と研究者)

(1)しじみ汁

(2)ぬた

(3)焼さざえ

○新潟のスローな味噌づくりに生きて


石山味噌株式会社
養田武郎   

○味噌と私

 私は恥ずかしながら石山味噌に入社するまでは、味噌については全く関心がなく、毎日、味噌汁をすすってはいても「当たり前」として気にも留めずに過ごしていました。正直、面接のときに社長から「味噌は何で出来ているか」と問われた時、「・・・かな」程度で、ハッキリと答えられませんでした。
 「食」についてはただ食べていただけで深く関心が無かった自分にハッとした覚えがあります。そもそも味噌も知らずに面接に行った自分に感心してしまいますが。学生時代は、食べるのは好きでたくさん食べたし、外食も結構したつもりでいましたが、食べられる状態のものをただ旨いだのまずいだの好きだの嫌いだのと言っていただけだったのでした。
 しかし、いざ食の業界に入ってみると、原料、つくり方、売り方などいろんな角度から食について勉強することになり、面白いと感じました。見る物聞く物がはじめてのものばっかりだから楽しくてしょうがなかった覚えがあります。
 そんな私もだいぶ知識がついてきて、今では「味噌は日本のスローフードでございます。」とか言いながら、人様の前でお話するくらいになってしまいました。  振り返ると少しむずがゆい感じがします。とにかく私にとっては味噌との出会いが「食」への入り口だったと思っています。

○味噌はどこからやってきたのか?

 ルーツを探るのはみんなが好きだと思います。日本の味噌のご先祖は、どの資料を見てもほぼ中国で間違いないようです。近年、私は仕事でよく中国へ出張するようになりましたが、南へ行っても北へ行っても、味噌汁は一度も出てきません。きゅうりを丸かじりしている姿はよく見ますが、味噌をぬったくってはいません。日本の味噌らしきものは中国には皆無の様です。
 資料によると、味噌のルーツは中国の醤(ジャン)だそうです。豆板醤(トウバンジャン)や芝麻醤(チーマージャン)は歴史とともに進化した形らしく、もともとの醤は、「獣肉や魚肉をたたきつぶして、穀類の麹と塩と酒を混ぜ百日寝かせて熟成させたもの」を言うそうです。何か物騒な食べ物のような気もします。これが素で中国から各地へ伝わって、気候風土やその地方の収穫物によって変化をしていったといわれています。

 この醤が南へ行ったものが、ベトナムのニョクマムやタイのナンプラーです。朝鮮半島を通って日本に伝わり、風土と作物と食文化によって今の味噌が生まれたと言われています。日本の中でも醤がほぼ基本のまま伝わった例が、秋田のしょっつるに代表される魚醤です。
 さて、中国でも北上していくと穀物地帯に入ってきます。このあたりより魚醤、肉醤から穀類を原料にした穀醤の比率が高まってきたと考えられます。それから韓国を通って日本へ入ってきたと思われますが、韓国では味噌汁にお目にかかれます。たいていは辛い唐辛子の入った味噌汁ですが、納豆汁も食べられます。スーパーには普通の味噌(大豆、米、食塩)も置いてあります。幾つか買って味見してみましたが、ほとんどが自家製の田舎味噌の風味です。
 具体的に言うと、表面に白い産膜酵母が発生した味噌をかき混ぜた風味です。最近では好まれなくなった風味のお味噌です。とにかく韓国では、辛い味噌汁をよく飲みます。食事としては混ぜ混ぜ食文化ですから、味噌汁の中にご飯を入れて食べます。
 いわゆる「汁かけまんま」ですから、スイスイ食べられます。消化のほどはどうかと思いますが、味噌はしっかり食べることができますので、栄養的には十分でしょう。個人的には辛いものやキムチは好きですし、混ぜ混ぜも好きですので、韓国料理は大好きです。ついつい食べすぎてしまいます。でも野菜をとる量が日本食に比べて半端ではないので、朝はとってもスムーズです(辛味で少し痛いですが)。

○味噌の分類

 味噌は日本に入ってきて米味噌、麦味噌、豆味噌と分化していきますが、それぞれの地域の産物と深く関わって変化してきました。米味噌も各地で配合割合などが違っていて、その地域の特色・嗜好が伺えます。日本での味噌の分類を表で見てみましょう。

 ご覧の通り、大きくは麹の原料に何を使ったかによって分類されます。全国的に米味噌は生産されていますが、麦味噌と豆味噌には地域的な食文化圏があります。
 九州や四国、中国地方などの暖地では、麦の生産が盛んであったため麹原料に大麦や裸麦が使われました。比較的甘めの味噌で少し麦の風味が残り、麦のふんどしが歯に挟まることもしばしばです。我々新潟県民はほとんど食べる機会もありませんが、味噌汁にするとどうも馴染めない風味です。薩摩汁などはこの麦味噌でないと本来のおいしさがでません。具沢山のおかず味噌汁には合うと思います。

 豆味噌は愛知、三重、岐阜の東海3県に生産・消費とも特化しています。いわゆる「八丁味噌」が有名な大豆と塩のみでつくる味の濃い真っ黒な味噌です。白いシャツを着て絶対食べてはいけない「味噌煮込みうどん」や「味噌カツ」に登場します。味噌汁でも良く飲まれるそうですが、麦味噌と同じく我々にはなかなか厳しいと思います。濃厚なイメージですが、味噌汁にすると意外とあっさりとしていて、夏場の暑い時期などにはスッと飲めるものです。
 豆味噌はしっかりと熟成させてありますので、味噌の味としてかなりの主張を持っています。よって味噌の加工品で味噌味(あじ)を強調する場合は、米味噌に加えて必ず豆味噌の助けを借ります。
 最近は新潟県内スーパーにも500gくらいの豆味噌が売っているようになりましたので、お料理に利用されてみてはいかがでしょうか。市販されている豆味噌は通称「赤だし」と言われています。「赤だし」は豆味噌を擂(す)ってから、調味料を混合し、加熱殺菌したものです。本来の豆味噌は桁外れに堅く、真っ黒いものです。
 八丁味噌へ見学に行くとそのものを焼いて食べさせてくれます。これは意外とおつなものです。大豆の栄養満点で、発酵・熟成しているから旨味もリッチで消化吸収もよい。おまけに水分が少なくて堅いので、戦国時代では戦地に携帯していく兵糧として重宝されたようです。
 戦国大名の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康もこの地方から全国統一を図りました。豆味噌の貢献度は絶大だったと思われます。のちに全国統一を果たした徳川家康は「五菜三根の味噌汁と麦飯」を家訓として残したそうです。本人も毎日実践し、当時平均寿命37.8歳の時代に75歳まで生きました。政治と継続には日々の健康管理が不可欠であるという証ですね。現在、永田町の味噌消費量は果たしてどうなっているのでしょうか?
 さて、全国的な米味噌ですが、表のとおり甘味噌から辛口味噌まであり、地域的な特色があります。概ね麹歩合と塩分、発酵・熟成期間でつくり分けられております。
麹歩合とは、原料大豆に対する原料米の使用割合を示しています。高くなるほど米の使用量が多くなります。甘味噌の白の麹歩合22とは、大豆10に対して米を22、つまり倍以上使っていることになります。米は多いことは、澱粉量が多いことになります。澱粉は発酵・熟成で分解されるとブドウ糖になりますので、味噌は甘くなります。辛口味噌は麹歩合7ですので、甘みは抑えられて、塩分が効いてきますので辛口となるわけです。
 熟成期間は色合いや旨味の多少に関係してきます。短ければ色は淡くなり、旨味は少なめで、あっさり味です。長くすれば色は赤系に深くなり、旨味も十分にでてきます。よく聞くご当地味噌としては、京都の白甘「西京味噌」、東京の赤甘「江戸甘味噌」、長野の「信州味噌」、宮城の「仙台味噌」、新潟の「越後味噌、佐渡味噌」などが知られています。

○味噌の生産

 このように味噌は、全国的につくられており、その地方の特色を色濃くもった調味料です。また、かなりの嗜好性をもった調味料です。よって、その地域の人々の口にあったお味噌がつくられており、味噌屋さんもかなり多くあります。
 現在全国味噌工業協同組合連合会に加盟している会社で1108社(平成18年度)もあります。内訳は以下の通りです。

 長野県が一番の味噌王国です。生産量もダントツです。新潟県もけっこう会社数が多いです。以下福島県、宮城県、大分県、愛知県、秋田県、熊本県と続きます。
 次に生産量を見てみますと、全国で約50万トンの味噌が一年間につくられています。50万トンの内、だし入り味噌が5分の1の10万トンくらい、無添加味噌が2万5千トン、無添加生味噌が1万2千トンくらいです。約90%が味噌汁用として利用されています。
 大豆についてですが、日本の伝統食品である味噌の原料大豆は、残念なことに舶来品が9割以上を占めています。概ねアメリカ・カナダ産大豆60%、中国産大豆33%、国産大豆6%という比率です。最近、日本では減反政策で大豆栽培が盛んになってきています。味噌の国産大豆比率を上げましょう!頑張れニッポン!!
 それでは味噌の生産量上位10県を見てみましょう。

 群を抜いて1位の長野県は、マルコメ味噌やハナマルキ味噌などの業界超大手がいるので、会社あたりの生産量はあてになりません。

 新潟県は昭和50年くらいまでは4万数千トンで、長野県についで第2位でしたが、残念ながら生産量が年々減ってきて今では6位になってしまいました。会社あたりでみると他県に比べて極端に少ないのも特徴です。小さな味噌屋さんがたくさんある県であることをご理解いただけると思います。  これは新潟県のみでなく全国的に見てもそうした傾向が強く、地域にほんとうに根ざした調味料であることは間違いないところです。
 そして味噌は微生物がかなり関与する調味料ですので、味噌屋が変わると一つとして同じ風味の味噌はありません。これは「蔵癖」といわれるのもので、「あぁ、かあちゃんの味噌汁が飲みたいなぁ」現象は、こんなところから生まれてくると思われます。
 もちろん最近はみそ汁を飲むの頻度が少なくなってきているので、この現象も徐々に薄れているのだろうと想像されます。なんとなく寂しい気分になってしまいます

○地域に根差した新潟の味噌

 小さな味噌屋さんがひしめく新潟県は、「越後味噌」という言葉があるように独特の味噌文化が存在します。品質的特徴は次のとおりです。
   1)色合い:赤味噌としてはややうすめ(東北の味噌よりうすく、長野の味噌より濃い) 
   2)水分が47%~48%。他地方より3%程度も高い。
   3)味噌に麹粒が多く残る。(特に上越地方の味噌は「浮き麹味噌」と呼ばれる)
   4)酵母発酵が旺盛で、香り高い。
 上記の特徴は、蒸煮大豆の処理方法と麹づくりによるところが大きいといわれます。
 蒸しあがった(煮あがった)大豆を2~5mm目のチョッパー(挽肉のミンチみたいな機械)で漉してから麹と塩を加えて攪拌・混合します。従来殆どの地域では、粒のままの煮大豆と麹、塩を混ぜてからチョッパーにかけて仕込んでいたといわれています。
 現在、この越後味噌の仕込方法は全国的に広まったそうです。日本の味噌づくりの変遷に、越後味噌が果たした功績は大きなものがあります。越後味噌は偉いのです。
 では、その昔、どうして新潟県だけそんな仕込み方をしていたのかに興味が湧いてきます。「新潟はお米がおいしいくて自慢したいから、大豆よりも米麹を目立たせたかったからだ!」なぁんて思っていたのは私ぐらいなものでしょう。新潟もコシヒカリがつくられるようになる前までは「鳥またぎ米」の県だったらしく、コシヒカリができる前から越後味噌があったということは、米を自慢したいはずがありません。

 真相は、越後における自家醸造の味噌玉味噌の方法に習ったものだそうです。子供の頭くらいの味噌玉をつくるには、大豆を徹底的につぶす必要があったことは間違いないようです。確かに豆が半殺し状態ではちょっと乾燥すればすぐ割れてしまって、吊るしておいた軒先から落っこちてしまいますものね。なるほどです。
 味噌づくりの基本としての麹づくりは、大豆のタンパク質を分解してくれる酵素や米のデンプンを分解してくれる酵素の生産が主目的です。しかし越後味噌の場合、酵素生産にプラスして、いかに麹菌を生育させるかに十分な力を注いでいます。要するにお米一粒の周りにどれだけの麹菌をつけるかが勝負なのです。
 麹菌が周りにビッシリついて、中にもガッチリくい込むと味噌が熟成しても米が袋状になってシッカリ残るのです。そして味噌汁にするとフワァ~と浮いてくるのです。味もよくなります。これが浮き麹味噌です。このテクニックには皆しのぎを削っております。
 また、味噌の水分が多いということは、色合いに照りがあって旨そうに見えますし、発酵が旺盛で香りが高いということは、食欲をかき立てる視覚と聴覚に直接プラスに作用します。現在は成分研究が進んでおり、味噌の香りの中には抗腫瘍機能が認められるHEMFという成分が含まれているそうです。もちろん越後味噌にはそのHEMFがたくさんあるそうです。
 朝、目が覚めると家中、味噌汁の香りで満たされていた頃は実に健康的だったということです。今、この瞬間、越後味噌の味噌汁を飲みたくなった人もいることでしょう。
 但しグラグラ沸騰させたり、あっため返しには、その効果はありません。みんな吹っ飛んでしまっています。思い出してください「味噌はひと煮立ち」これがおいしさの秘訣ですし、ひいては健康の秘訣です。

○知られざる味噌の世界(味噌名人と全国味噌鑑評会)

 我々が所属している味噌業界では、名人や先生がたくさんいらっしゃいます。やはり日本の伝統食品ということもあり、大切に受け継がれているものを感じます。味噌屋さんの後継者や若手が名人や先生から様々な技術を学ぼうと勉強会や鑑評会が年に何回も開かれます。
 先生方は、加茂市にある新潟県食品研究センター出身もしくは現役の醸造の先生方です。常に叱咤激励されながら指導をしていただいております。新潟県の味噌業界の発展と味噌技術の向上には食品研究センターのご指導なくしては有り得ないほど尽力いただいております。
 また、「にいがたの名工」として認定された味噌名人は、業界経験17年の未熟な私が知っている限りで5人いらっしゃいます。皆さんは懐の深いやさしいお人柄の方ばかりです。しかし、味噌にかける情熱は想像をはるかに超える域に達していることは間違いありません。
 私が若かりし頃、名人を前に「大臣賞3回とったら名人だから、俺もなる」と暴言を吐いてしまったことがあります。名人は「おぉ頑張れよ」と笑ってくれましたが、後で先生に「お前が言うのは失礼極まりない」とかなりたしなめられた経験があります。
 未だ名人から何も盗めない自分自身がここにいると思うと、はずかしいばかりです。はっきり言って名人は無理です。先生も私のことをよく理解していらっしゃいます。すみませんでした。
 全国味噌鑑評会は毎年11月に開催されます。去年でなんと第50回を数えました。前出の味噌の種類に沿って全国からおよそ600~700点の味噌が東京に集まります。
酒の品評会はよくテレビ中継されますが、味噌はほとんど見たことがありません。何か地味な感じがするのでしょうか? 酒の審査員も酔っ払っちゃって大変でしょうが、味噌の審査員も塩分取りすぎになりはしないかと心配です。

 審査員は全国の先生と名人から選ばれています。新潟県はこの鑑評会にかなり力が入っていて、長野県と勝った負けたと競り合っています。新潟県からは毎年農林大臣賞が出ています。やっぱり名人がいた蔵元、いる蔵元は受賞率が高いです。
石山味噌も善戦してます。大臣賞はまだ経験がありませんが、その次の賞は2回とったことがあります。ですから、一線の光が見え隠れしています。近いうちに弊社工場長が名人になることを夢見ています。
 農林水産大臣賞は、日本で一番すばらしい味噌ということになりますので、もっとPRすべきだと思うのですが、受賞歴を広告宣伝に利用してはならないという規定があります。よって、知られざる世界となってしまっています。何となく残念です。

○ぐっと身近に-昔の新潟市近郊の味噌と味噌業の生い立ち

 興味本位に県立図書館に行って、新潟市史の味噌に関する記述を読み漁って見ました。すると江戸時代ころからの記録がありました。
 1730年(278年前)は、農家では自給自足用の自家醸味噌をつくっており、各城下町では武士やお抱え商人用に藩で生産管理されていたそうです。きっと全て味噌玉味噌だったことでしょう。時期になると軒先に味噌玉がずら~と並んだ光景が想像されます。もちろん原料は100%新潟県産だったのでしょう。
 元治元年(1864年、144年前)になると工業化が少し見られるようになります。新潟市内では、造酒屋 が8軒あり、2190石(約400キロリットル)生産していました。また、醤油屋も8軒あり、1039石(約200キロリットル)をつくっていたようです。
 当時の醤油屋は味噌づくりも手がけている回船問屋がほとんでであった模様です。味噌に関しては、松前方面(北海道)への移出と、町内消費がほとんどだったようです。
 明治時代に入りますと、生活の物価基準に味噌が登場してきます。確実に全家庭にあり、生活必需品であったのです。味噌を買う行為は市街地のみであり、周辺の農村部では自家醸造していました。
 明治15年~20年の物価(1882年~1887年)を見てみましょう。

 お米は飢饉の時の最高値で0.07円/kgでした。現在と比較すると、魚沼産なら700円以上/kgで、当時の10,000倍以上、一般コシなら500円/kgで約7000倍になっています。中国の一般米は現在1元(15円)/kgで約200倍です。
 味噌はというと、高値で0.06円/kgでした。米と同じくらいの価値です。現在では、最高級品で1,200円/kg(20,000倍)、一般品で300円/kg(5000倍)です。だいぶバラエティに富んできました。醤油は、高値で0.09円/Lで当時は高級品だったことが伺えます。
 現在では、一般醤油でだいたい150円/L(1666倍)ですから、倍率は極めて低いです。今では、醤油は水より安いといわれています。

 明治22年に新潟市が誕生したそうです。当時の記述には、「味噌(手前味噌)は財産の基準」とされていたようです。使途としては「火事見舞い」「家持ち(分家)に持たせる」などでした。今は金一封というところに味噌が使われていたのですね。
 味噌は長持ちするから、貯金みたいな感覚もあったでしょう。当時云われていたことに、「3年味噌は一番味がよく、2年味噌をよく食べた。1年味噌を食べるのは貧乏人」というフレーズがありました。当時の人から見たら、現代社会の人たちは皆貧乏人ですね。2~3ヶ月くらいの速醸味噌を食べたら、人間として見てもらえたでしょうか?
 当時の味噌の仕込みは春先が主流だったようです。農・漁村別では次のような違いがありました。


農村:さつき(田植え)前の農事の合間に味噌を仕込む(5月末~6月はじめ頃)
漁村:4~5月ころ イワシ漁の最中のシケた日に味噌を仕込む。

 また、彼岸味噌は悪いとされていたそうです。確かに天然醸造であれば、これから寒くなる時期の仕込みは、なかなか発酵し始めません。仕込時期としてはあまりお勧めできないことは言うまでもありません。
 この当時の味噌にする大豆の量としては、平均一人一年間に一斗(18L)だそうです。味噌にするとだいたい40kgくらいになります。平成18年のデータでは、全国平均で一人あたりの年間味噌消費量は2.3kgなので、実に17倍も味噌を食べていたことになります。
 びっくりしますが、味噌から摂る栄養価はとっても重要だったに違いありません。味噌汁にすると年間約600L、1日1.6Lも飲んでいたことになります。ちょっと飲みすぎの様な気がします。
 米麹は、室屋(むろや)で買うか交換していたそうです。交換割合は、米1升(1.8L)で麹1升(1.8L)です。米1升は1.5kg、麹1升は0.9kgですから、室屋は米1升をあずかって0.6kg分の米、つまり0.4合くらいは懐に入れていた勘定になります。これは儲かりますね。
 当時の一般的な仕込み配合を見つけました。


大豆 一升 、麹 五合 、塩 五合

おおよそ 5割麹で15~16%塩分の味噌となります。現在よりは麹歩合が若干低く、かなりの高塩分です。
 仕込方法は、図のようにやはり味噌玉味噌です。越後味噌の原点ですね。


大豆を煮て、藁の深靴をはいて踏み潰す。 
  ↓
味噌玉をつくる。
  ↓
一ヶ月吊るす。
  ↓
刻んで、麹と塩と混合する。
  ↓
2年~3年ねかせる。


 醤油のかわりには、味噌だまりを使用していたようです。当時、醤油は高級品だったので、農村部では買えなかったのでしょう。味噌には米麹が入っているので、味噌だまりは甘みがあって美味しかったと思います。
 当時の農村部の食生活は、以下の様に表現されています。


一 雑炊
二 かゆ
三 カテ飯
四 団子
五 おこわ
六 餅

 と言われ、三のカテ飯までを日常食としていました。四以上は、「ハレ」の日の食事となります。ちなみに聞き慣れないカテ飯とは、くず米や青米を石臼で粗く挽き割り、ヒマワリや大根や芋を混ぜた飯のことをいいます。どんな味がするのでしょう。機会があったら試してみたいと思います。
 味噌汁は、日常的には、朝だけつくり、具はおかずになるほど山ほど入れたそうです。通常のおかずはコウコ(たくあん)などの漬け物だけというのが一般的のようでした。タンパク質や脂質、ビタミン、ミネラルは味噌汁から摂っていたのですね。

 明治時代後期の新潟市の醸造業としては、醤油、味噌、焼酎が主流となり、清酒メーカーは一旦ほとんどなくなってしまったそうです。中でも沼垂地区での味噌、焼酎の製造が盛んで、北海道へ移出していたと記述があります。
 沼垂地区は、栗の木川沿いに位置し、原料入荷、製品出荷が船でできる利点があり、醸造業者が軒を連ねたといわれています。現在では、移転した工場もありますが、新潟市の味噌屋、醤油屋、酒屋のほとんどが新潟港から栗の木川周辺に集まっています。「発酵の町 沼垂」として盛り上がっています。歴史的にも新潟市の醸造業は沼垂がメインだったことは間違いない事実です。
 石山味噌は、創業が明治39年ですので、この時代に味噌業を始めました。沼垂とは川向の湊町ですが、やはり川にほど近い位置に味噌工場があります。聞くところによると弊社もやはり回船問屋から味噌・醤油業に転身したそうです。当時、船を持っていることが第一条件だったようです。また食べ物が今ほど豊富に有り余っている時代ではないので、この時代に蔵を建てて、何年も味噌(お金)を寝かせていられる人は裕福な家系であったことも間違いありません。新潟の古い味噌屋さんは、もともとみんな旦那様だったと聞いています。
 明治も終わり頃のこんな資料がありました。今の暮らしと比べてみてください。

 家庭での味噌の支出金額は、総収入の6%弱を占めています。平成18年のデータでは、年間で一世帯あたり全国平均2,694円ですので、年間所得400万円とすると何と0.06%くらいです。味噌の存在価値がこんなにも下がってしまいました。ちなみにこの頃、イタリア軒、小黒館、滋養軒が開業したそうです。

 続いて大正時代に入ります。大正12年(1923年)関東大震災がおこりました。その時、在京新潟県人がこぞって故郷に食料を求めたので、米とともに味噌が大量に首都圏に送られました。今まで北海道が主だった移出も関東にも取引の基盤ができて、新潟県内の味噌の生産量がどんどんと増加していきました。「地震特需」が起こったのです。「越後味噌」という名称は、このころから広まったそうです。
 昭和に入りますと戦争が食糧事情にさまざまな影響をもたらします。満州事変があった昭和6年には、新潟港が北朝鮮航路、昭和7年に大連航路をそれぞれ開設しています。そして昭和12年頃から大連に向けて、果物、漬物、味噌、白玉粉、清涼飲料の輸出が盛んになりました。
 輸入は、ウラジオストックや大連からの大豆粕(肥料にした)が多かったのですが、昭和10年以降に化学肥料が普及し始め、大豆粕輸入が減り、原油輸入が増えました。また、米の籾摺り技術が進歩して、土臼から電動ロールに変わっていき、割れ米や砕け米が少なくなってきて、前出のカテ飯は姿を消していきました。
 また、この頃から味噌だまりの使用から醤油の需要が多くなってきました。農村部でも醤油を買うようになってきたのです。この時期の味噌の生産量として新潟県全体で年間5,000トン生産していました。
 戦争がどんどん激化していき、昭和13年に国家総動員法が施行されました。この頃から徐々に生活物資の不足が顕著になり、昭和16年には米穀通帳制が布かれ、切符で米を買う時代がやってきました。味噌、醤油、肉類、菓子も配給制となり、味噌屋も戦時下の統制会社となってしまいました。そして敗戦を迎えます。
 終戦後は、味噌の生産量も激減しますが、昭和25年に味噌の統制制度が解除されてから、徐々に回復して、昭和40年後半には、年間23,000トンの生産量を記録しています。このころがピークです。
 その後は、食生活の急激な変化と、長野県などの他県での巨大味噌工場の登場などにより、新潟県内の生産量は徐々に減少していき、現在では13,000トンのレベルにまで落ち込んでいます。新潟市内の味噌屋さんは、新潟地震にも耐えてがんばってきたものの、大きな流れには逆らうことができず、同様の経過をたどっています。何とか名誉挽回したいものです。

○これからも味噌をよろしく!!

 皆さんも既にご存知と思いますが、味噌ももうすぐ値上がりします。原料や燃料の高騰、資材の高騰に耐え切れなくなってきました。さらに中国問題が重なり、味噌というよりも日本の食生活全般が危機にさらされています。
 そんなことを言っても、とにかく生き残らなければいけません。食生活の見直し、農業政策の見直しで食料自給率を上げる努力が必要です。日本人は古来より米と味噌で育まれ、持続してきた民族だと思います。間違いなく日本人のDNAは、米・味噌モードになっています。味噌のすばらしさをもっと知ってもらうこと、国産原料の比率を上げること、個性的な味噌をつくれる技術の鍛錬をすることが、味噌屋としての生き残りもかけた使命ではないか、と考えております。
 「きっと味噌が日本を救う」そんな思いで踏ん張りたいと思っております。
 ありがとうございました。