2008年01月01日 14:04
日本人にはご飯食(和食)が身体に適うと言われる。米中心の食事であれば、これ程までに生活習慣病に悩まされこともないとも言われる。
しかしその論拠となると、医学的な見地以外の様々な学問や研究を引き合いにださねばならない。人類学、民俗学、栄養学、歯医学などの分野にまで及ぶことになる。
その広大な分野に及ぶ日本人の食性を、以下の4つに分けて考えてみたい。日本人の食性のゆくえを探ろうと言うわけである。
いかに日本人の食性が食の洋風化によって壊されてきたかを、多くの先人の考察を参考にしながら論じることにする
(1)、日本食文化の否定
明治維新後、日本はドイツなどの寒冷地の栄養学を導入し、その普及を図ってきた。現在の栄養士のマニュアルの拠り所である。西欧に倣えの時代だから、やむおえない事情があったのだろう。いわば北緯50度の自然環境を反映した食思想が、北緯35度を中心とした日本にそのまま導入された。
その結果、日本古来の食思想である身土不二なる知恵も、無批判で破壊されることになる。欧米人の食性を日本人にあてがうことの、不合理性に対して、最近まで、なんら疑問を投げかけることもなく、盲信されてきた。

さらに戦後は欧米をモデル(特にアメリカ)とした食思想が、豊かさの象徴のごとく導入され、日本人の食生活の体系は破壊され、現在に至っている。
その結果、肉や脂、小麦などの消費が増え、米の消費は激減することになる。食糧自給率も40%を切ることになる。
そして身体に装備されている遺伝子に合わない、欧米の食べ物が増えたことにより、生活習慣病という厄介な文明病に日本は悩むことになる。身体は日本人、食べものは欧米食というアンバランスがもたらす当然の結果が、今、現れているのである。
また我らの食生活の体系は「食術」として次世代に引き継がれる。食術は食に関わるあらゆる知恵、技術、経験、勘、コツなどであり、同時に家族、地域の住民の健康に関わる知恵と技術でもあったが、高度経済成長によって世代が分断され、食術は破壊された。
伝統的な知恵や技術は、正当な評価のないままに切り捨てられ、食術を知らない世代が、細切れの知識や情報によって食生活を営んでいる。食卓の崩壊はこうして日本全土の家庭を覆い尽くすことになる。
明治以降の日本の食の根底には、このような「日本食文化の否定」や「食術の断絶」があり、それが最近の食育の見直しに繋がっているとみて、間違いない。
(2)、ヒトの食性とは
ヒトの身体は食べものによって作られる。体質も体調も、食べものに左右される。この何を主な食料として食べて、命を育むかを表す言葉が「食性」である。ライオンや猫は肉食性、牛や馬、パンダなどは草食性となる。ヒトは雑食動物といわれ、つまりヒトの食性は雑食性の分類に入ることになる。したがって雑食性にふさわしい身体的な特徴を持っている。その代表例がヒトの歯並びである。
またヒトは手に入るものしか口にすることはできない。すなわち逃げていかないもの、襲ってこないもの(植物)に限定される。この食性に従った食生活が、もっとも望ましい。
さらに種の分類において、ヒトよりも遠いものほど食材としては、適しているとも言われている。牛よりも魚、魚よりも植物というように、DNAが遠い存在ほど食に適うとされる。人類学的には、ヒトと食べものの距離をこのように考える。
もう少しヒトの食性を支配する、古来から変わらない特性をみてみよう。
○ヒトは歯も爪も鋭くない
○機能の面では、咀嚼機能を持つ、アミラーゼ活性が高い、ビタミンCの合成能力を持たない
○走る速度が遅い
などの事実に気がつく。咀嚼機能は植物食の動物にのみみられる機能である。アミラーゼ活性の高さは、ヒトの澱粉食が重要であることを示している。
文化や技術がどのように発展しても、ヒトが摂取した食物はヒトの能力を超えて処理されることはない。食性は,道具や武器を使わずに何が入手できるかが基本となって整えられる。
形態を見ると、ヒトはビタミンCの合成能力はないが、熱帯を起源とするヒトは果実や葉を食べれば十分なビタミンCを得ることができた。合成能力を持つ必要がなかったのである。
走る速度は100Mを10秒で走ったとしても時速36kmに過ぎない。通常はペットの犬にも追いつくことは出来ない。視覚,聴覚,嗅覚など食物を発見するための機能で発達しているのは視覚だけである。

食性の検討には道具も武器も持たずに何が入手できるかが問題である。「入手できないものは食の対象とならない」のである。
平爪と鋭くない犬歯、唾液アミラ-ゼ活性が高いという特徴、視覚は発達していても嗅覚や聴覚が十分でなく、脚も遅いヒトにふさわしい食物は何か。
このような観点からヒトの食性を検討すると、ヒトが澱粉質食品を主とする植食性であることが見えてくる。しかも日本人には米の澱粉質がもっとも適う。この指摘がご飯食をすすめる論拠なのである。
さらにヒトを含む動物の乳はかなりの高脂肪だが、糖質、蛋白質、カルシウムなどは、一般にその種のオトナの摂取する食物の栄養素構成を反映している。
食品成分表によると、人乳、牛乳、ヤギ乳の糖質はそれぞれ100g中に7,2g、4,5g,4,5gである。同様に蛋白質は1,1g、2,9g、3,2g、カルシウムは27mg、100mg、120mgである。人乳は牛乳やヤギ乳と較べて、著しく高糖質、低蛋白、低カルシウムで、数10年前までの日本人の食生活とほぼ同じである。欧米食を摂らなくても、たんぱく質やカルシウムは十分補給できるのである。
念のため、健康を尺度として、ヒトの食性と人間の食文化との調和を計るひとつの方法として「ご飯と味噌汁を2~3倍に,おかずは3分の1に」を提唱している。栄養素の名前は入っていないが、必要なデンプンを摂取し、タンパク質や脂肪の過剰摂取を避けることができる。
ヒトの身体は文明・文化の発展と同じ速度では変化できず、われわれの身体は縄文時代ともそれほどの違いはない。このことは食生活に急激で大幅な変化を求めることの危険性を表している。食生活の体系を守りつつ、若干の改善を加えることが健康の基本である。
さらに食の面での利便性の追求により、加工食品の急増とその軟食化が進行し、栄養素過信は咀嚼の必要性の認識を低下させた。咀嚼が全身の健康と密接な関係があることは、近年再び認識され始めたがまだ十分ではない。とくに子ども達の「噛む力」は脆弱であり、様々な弊害の元となっている。
ヒトの重要な機能の一部である咀嚼を理解し、咀嚼機能を発揮できる食環境を作ることも、食性と食生活の調和であろう。ファストフードの弊害を指摘する大きな理由がここにある。

(3)、食術のゆくえ
工業化が進み、高度経済成長期になって、日本からの工業製品の輸出が増加し、その見返りとして食糧の輸入が行なわれるようになった。FTA(自由貿易協定)も結ばれて、約8,000億円の農産物が日本に流入する。
こうなると日本の農業は破壊的な打撃をうけ、農村文化も一変する。しかも賃金の安い勤労者を養うためには、安い海外産の食材をあてがうほうが、国益に合っていると考える行政や経済界の打算も透けて見える。「食料の自給ができない国は、主権国家ではない」と、世界の多くの国の指導者が唱えているが、それは正に正論であろう。
さらに20世紀の終わりから、21世紀のはじめにかけて、食をめぐる大きな問題が続けて起こった。遺伝子組み替え食品が登場し、2001年には日本でもBSE(狂牛病)の発生が確認された。
狂牛病もウシの食性を尊重していれば起こり得なかった病気である。この事件をきっかけに,肉離れが起こるとともに、食の安全性についての関心が高まった。これらはいずれも経済効率第一主義が惹き起こした問題である。今後、価値観の転換も求められることになろう。
食品加工や農業の近代化は、地貌の農産物を排除して、同じ品種(F1)の作物で店頭を埋め尽くしている。旬という日本のこまやかな感性は、もはや語り部の世界でしか味わうことが出来なくなっている。
また専売公社時代の食塩は、純度の高い塩化ナトリウムであって、海水とは大幅に成分の異なるものである。このような状態の中で、微量成分の不足が慢性化している。天然塩がさかんに市場にあふれ出ているのは、その危機感からであろう。
これらの解決には、栄養素主義ではなく、目で見える食品、料理を重視し、食生活の体系の再構築がもっとも期待されることである。
食術の継承に残された時間は少ない。食生活の体系の再構築ができるか否かが、今後の日本人の存続の可能性を決めていくことになろう。
(4)、風土に見合った食生活と健康
風土に見合った食生活によって、健康を考えるのであれば、自分たちが日本の風土に生きる日本人だということを意識しなければならない。日本人の食術はそれを土台にして生まれてきたからだ。その食術の継承に残された少ない時間を有効に使うことが出来れば、健康を期待することもできる。
しかしこれまでのように欧米だけを意識して、その模倣をするだけならば、日本人の将来を期待することはできないだろう。1995年には日米の野菜の消費量が逆転し、アメリカでは癌などが減り始めたが、日本では増加を続けている。
高齢者の智恵を現代に生かすとともに、子どもたちにも伝えていくことによって、大人の健康だけではなく、次代を担う子どもたちの健康も確保されることになろう。
文明開化当時に日本を訪れた外国人は、多くの日記や手紙を残しているが、そこには「日本人は小柄だがこれほど健康で体力のある民族を見たことがない」という共通点がある。このような日本人の復活を期待したいものである。
以上が民族的、人類学的な見地からの日本人の食性論である。スローフード運動の大きなテーマである「食育」に対しても、様々な知見を提供してくれる。
日本人が持つ、いわば遺伝子的な食性を無視した食のあり方は、今後様々な角度から検証され、改善されていくだろう。
海外を旅行すると、国々の食事情がよくわかる。美味しいと思う国は中国、フランス、イタリア、スペイン、アルゼンチンなどだ。逆にそうでない国は米国、英国、カナダ、オーストラリアなどである。
おしなべてこの違いを表現すればアングロサクソン国家の食は不味く、アジア&ラテン系諸国は美味しいという図式がなりたつ。この民族性の違いを理解しておくと、食の世界的な潮流がみてとれる。
一般的に世界主要国の食は2つに分けられる。食を「資源」と捉える国と、食を「文化」と捉える国に分けられるのだ。その違いは以下の通りとなる。
(1)、食は資源なり=米国、英国、カナダなど
⇒ファストフード、貧しい食文化、効率主義、金融業、システマチック、グローバリゼーション、食餌性
(2)、食は文化なり=フランス、イタリア、中国、日本、スペインなど
⇒スローフード、豊かな食文化、手工芸的、職人、製造業、品質主義、ローカリゼーション、グルメ快楽
以上が民族性と食の関係だ。国の食戦略はこれらに基づいている。
現在、世界の大国は例外なく農業と「食」を重視している。超大国の米国は世界有数の農業国であり、中国も農村・農業問題をもっとも重視している。歴史を振り返れば食は人類の文化の基本であり、経済の中心であり、覇権の流れを作ってきた。
英国が超大国になったのは、アジアやアメリカ大陸などを植民地化することにより、食材の生産・流通を支配し、その交易で厖大な富を蓄積したからだ。米国が覇権を唱える背景には、圧倒的な食糧生産力があり、大量生産・大量販売という手法によって食を「工業化」し、世界の食料事情を支配するところにあるのだ。
それがハンバーガーに代表されるファストフード、コーラーなどのソーダー水、ブロイラーなどの家畜の大量生産の仕組み、スーパーという大量販売の小売システムが覇を競って世界を塗りつぶしていった。
米国や英国は、食は単なる貨幣を増殖させる資源としか考えていない。極めて経済的、政治的な手段として捉えており、食文化を楽しもうなどという発想は、希有と言われている。そのためにアングロサクソン国家の食は「不味い」というレッテルが貼られる。
その結果、大気汚染、森林破壊、天然資源枯渇、地球温暖化、大型スーパーによる商店街の破壊、低賃金雇用による貧富の差の拡大など、ファストモード文明は人間性の崩壊をももたらすとの批判が強まっている。食の世界にもファストフードの弊害が指摘され、肥満や糖尿業の蔓延する事態を招き、狂牛病なる恐ろしい病気まで生み出してしまったのだ。

一方、食を「文化」と捉え、食文化によって覇を唱えようとしたのがフランスである。ワインと料理との複雑な取り合わせに代表されるように、フランスは王族や貴族の贅を尽くした調理が伝承されてきた背景がある。それが時に、外交の駆け引きの重要な手段にもなるのだ。「食べ物のまずい国の人間は信用できない」と発言するほど、食文化を重要視している背景がここにある。
フランス料理の原型とされるイタリア料理もフランスと同じ背景があり、イタリアからスローフード運動が立ち上がったのも偶然ではない。
ラテン系の民族は、製造技術こそ日本などには敵わないが、逆に日本にはない強みをもつ。それはブランドの力である。フランスのエルメスやイタリアのグッチといった高級ブランドは、高利益をあげている。その売上の60%を支えているのが、実は日本人だといわれている。
食文化に関しては、フランスのさらに上を行くのが隣国の中国だ。なにせ3千年の悠久なる歴史を誇る世界の大国である。皇帝料理が食文化を華やかにしたのだ。なかでも中国の食文化を特徴つけるのが、漢や唐の時代より追及された「医食同源」の思想である。不老長寿を目指した食が同時に薬である、という考え方は西洋にはない。
中国は産業革命以降の近代化には失敗したが、その間も食と言う面では、量、質とも非常に豊かであり、近年の台頭はその食が根幹にあるとみていいだろう。
さて最後に登場するのが我が日本の事情である。なかでも世界的に空前のブームとなっている日本料理に付いて語らねばならない。そのブームの実感が我らにはないのですが、もてはやされているのは確かなようだ。
その日本料理の根幹は「季節感」と言われる。それは、その季節にとれた新鮮な食材を、素材の持ち味を生かして高度な技術でデリケートに処理して食べるという文化である。明確な四季が存在し、それにつれて旬の食材が次々と入れ替わる国は、他にはない。身土不二という概念も日本料理の特徴である。
調理法もフランス料理のように手の込んだ調理は行わず、バターやクリームを使った濃厚な味付けもせず、米国のような食の工業化とも相容れない、低カロリーの健康食が世界の注目を集めているのだ。とくに世界の上流階級やエリート族が好んで食べるようになっている。
しかし一方、肝心の日本で今、この古くからの食文化が崩れかけている。2005年に食育基本法が成立したが、食のことを今の母親があまり知らないという問題があり、子どもたちにどう食文化を伝えるかが難しくなっているのだ。ダシの取りかたひとつとっても無関心な家庭が圧倒的に多い。皮肉な現象が起こっているのだ。
せっかく世界最高の食文化を持ちながら、ファストフードチェーンの蔓延ぶりも深刻な問題である。ファストフードの売上が減少しているとはいえ、日本ほどファストフードが蔓延した国は他にはない。

かの日本の総中流階級を作り上げたのも、実は、ファストフードの功績である。美味しくって、モダンで、安価で、格好良かったからだ。これは近代化の象徴でもあったわけだが、しかしそれと同時に、失う大切な文化も続出した。この負の部分が様々な形で露見しているのが、現在なのである。
フランスやイタリアにも数多の数のマクドナルドある。ただい周りの景観を壊さないデザインや看板で出店しており、日本ほど過密ではない。ひっそりと遠慮気味に共存しているのが実態だ。
スローフード運動はグローバリゼーション、規格大量生産という20世紀的産業社会の流れに抗して、非効率であっても、多様な価値観を認め、持続可能な社会を後世に残こすことを目指している。しかしこれらを教条的な主張を繰り返すだけでは、人々の心に届かない。食育や地産地消活動も、気の遠くなるような地味な活動の絶え間ない努力が求められる。
日本は食資源を武器に覇権を唱えることはないだろう。むしろ食料自給率などを考えると、他国の覇の傘下に入ることでしか生き延びることができない。だからこそスローフードな哲学や生き方が次善の策として重要となるのだ。
食には国や民族性のそれぞれの戦略があるということを理解しておこう。
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