2007年10月01日 21:49
結論から言えば、養殖魚のリスクは少ないというのが、関係者の一致した見方である。養殖魚といえばとかく悪いイメージがつきまとう。中国産冷凍うなぎから発がん性のある合成抗菌剤が検出されたことで、「養殖魚=危険」という悪いイメージが、メディアを中心に垂れ流されたからだ。
しかし現実を冷静にみると、「養殖魚は生産体制が管理できる。けれど、天然魚は何を食べて育って、どんな病気に感染しているのか検証する術がない」のが実情であり、天然魚だからと言って、安全が担保される訳ではない。
養殖魚は病気との戦いの連続であり、天然魚は自然環境との相関性にすべてが左右される。
養殖魚は流行に波がある病気を予防・断絶するために、抗生物質や合成抗菌剤を投与する。魚の体内に一定以上の薬品が残留すると、人に有害な場合もある。投与する餌の2次海洋汚染という別次元の問題も懸念されている。
それでも養殖魚を危険視する風潮に、疑問を唱える関係者は多い。誤解があるとすれば、投与された抗生物質などの薬品はすべてが魚に残留している、と思われていることだ。
これは人間の場合も同じだが、新陳代謝を繰り返し、摂取した薬品の大部分は排出される。しかも2006年5月29日からスタートしたポジティブリスト制は、水産物にも適用され、「悪かろう・安かろう」の品質は激減することになる。
そしてアラスカ産天然鮭よりも、高値で取引される養殖鮭(アトランティックサーモン)が市場で人気を博し、ひっぱりだこだという現実が起こっている。この価格の逆転現象は、養殖魚が市民権を得たことを表しており、世界の水産物の40%はすでに養殖魚が占めている。まぐろの%0%はすでに畜養とよばれる海洋牧場で、養殖され、しかも日本は他国にセリ負けていると聞く。
魚民族の日本人は、一人あたり年間64キログラムの水産物を食べているが、その40%は養殖魚が占めている。回転すしの鮪、鯖、海老、鮭などはほぼ100%養殖魚が使われている。その回転すしを、我らは危険視したことが現実にあるだろうか。
さらに日本の魚の自給率は、1970年代には100%だったが、2005年には57%まで低下している。このままいくと、作物の自給率と同じ運命になる懸念さえある。日本がお魚天国だったのもそろそろ、過去の栄華となる。
魚資源の確保は、日本民族にとって、生きるか死ぬかの境目となる。天然物と養殖物への二者択一論議は、そろそろお終いにすべきである。
<考察>
養殖の否定は、自然に生えている野菜、果物のみを食べ、農家が栽培した作物を拒否するのと同じことだ。魚も農産物と同じように、栽培する時代にきていることを冷静に捉えなければならない。
天然も養殖もそれぞれのリスクを持っていることを理解し、ことさら安全性ばかり気にするのではなく、味や価格を比べながら選ぶのが知的消費者の取るべき態度である。
魚資源の争奪戦は、世界規模ですでに始まっており、魚牧場構想が今後、国策として浮上してくることは、時代の趨勢とみるべきだ。マグロの養殖も近畿大学のグループで、ビジネス段階に入っている。
まず日本の貿易収支の現状をみてみよう。 /単位:億円
2003年 |
2004年 |
前年比 |
|
輸出 |
3,410 |
3,611 |
5,9%増 |
輸入 |
69,342 |
72,818 |
5,0%増 |
収支 |
▲65,932 |
▲69,207 |
5,0%増 |
貿易収支の赤字幅は約7兆円であり、とりわけ肉類(93億ドル)、魚介類(144億ドル)の輸入金額が突出している。
一方、日本国内産の農林水物の生産規模は、平成13年度で約11兆2000億円である。
明細は以下の通り。
・農産物総計(6兆9000億円)
米(2兆3000億円)、野菜(2兆1000億円)
果物(7,900億円)、その他(1兆7100億円
・畜産物総計(2兆5000億円)
酪農(8,200億円)、養鶏(6,500億円)
肉豚(5,000億円)、肉牛(4,600億円)
その他(700億円)
・水産物総計(1兆8千億円)
したがって日本の最終消費額(80兆3000億円/年間)からみた飲食費のマーケット規模のおよその流れは、以下の通りとなる。
以上の数値から、もはや日本の食卓は、海外からの輸入なしでは成立たないことがはっきりと分かる。食料自給率40%という、およその全体像がみてとれる。
しかも工業製品を輸出して、その代わりに食資源を輸入して、国民を食わせているんだというハイテク企業の傲慢さが当たり前に論じられ、それに慣れてしまった大多数の我ら日本人の大らかさも見えてくる。実際、日本のGNPの1%くらいしかない農業生産高を、経済界や経営者の多くは見下しているのが現実である。
お金さえだせば、いくらでも買えると錯覚に陥っているのであろうか。しかしどこかおかしいぞと、その危機に気付き始めた日本人。さらにこれらの危機をすでに嗅ぎとった一部の企業が果敢に、海外の食料確保に着手し、次世代のビジネスを目論んでいるとも聞く。
日本が安定的に食料を確保できるかどうか。すなわち「食料安保問題」において我が国は憂いがないのかどうか。官民一体となって、直視しなければならない重大課題が山ほどあるのに、このままは放置しておいていいのか。農業関係者との会話において出てくる、FTA問題なども食料自給率にただちに直結するから容易でない。
さらに誤解を恐れずにいえば、リスクの発生確率を考えると、添加物やBSEよりも「日本の食糧危機」が表面化するリスクのほうがよほど高いとみるべきだ。「○○を食べれば△△に効く」などと、メディアが流す情報にうつつを抜かしている場合ではないのだ。危機的な未来が、すぐそこまできているからだ。
そして売り手市場となる国際競争のなかで、日本が食料資源を安定的に確保するための戦略を考えねばならない。
では具体的に、これらの難しい方程式をどう解けばいいのだろうか。その解は容易ではない。国策レベルでは「食糧安保・危機マニュアル」が設定されており、それに基づいて何時でも発動できる態勢にあるようだが、戦後の食料事情の二の足を踏まないためにも、薄れた日本人の危機意識を立て直すことが重要となる。
識者が考えるヒントは5つほどある。
最後に「食卓に迫る危機」に対して、スローフード運動がはたすべき役割について考えてみよう。その辺を総括しながら辛口な論の締めとしたい。まずスローフード流の視点で「食卓に迫る危機」の具体的な課題をみてみよう。
それは大きく分けて2つある。
この2つをごちゃ混ぜにすると、スローフードの果たすべき役割が見えにくくなる。
その前にスローフード運動の原点を再認識しておこう。スローフードだから、何にでも首を突っ込まなければならないわけではない。
以上が眼目である。いわば、「画一性への疑問、食育、種の多様性の保存、食の快楽の確保」などを提言するのが運動の原点である。ファストフードな画一的な食資源の確保にだけ頼らずとも、もっと外のやり方があるぞ、という考え方をスローフードは主張したいのである。
これはあきらかに「質」に関わる問題意識からスタートしている。ファストというウイルスに犯され、工業化された食資源の量産に頼って生きることを戒め、それに準じる人間の生き方までにも、警告を鳴らすのが使命と心得ているのである。
しかしスローフードが果たせる役割はここまでである。農薬問題、遺伝子組替え問題、食品添加物問題、養殖魚問題、食料安保、食卓の荒廃などの「工業としての食べもの」 の弊害に警笛をならすだけで精一杯である。
スローフードは政治活動でも宗教活動でもない。ましてゴリゴリとファストフードを追い詰め、破壊するような運動でもない。イタリアが不祥事で落ちこんだ地域のワインの建て直しに、このスローフードなる宣伝活動を擁して、成功したことは周知の事実であるが、それはあくまでもプロモーションとして果たした役割であり、政治活動ではない。
となるとスローフードが果たすべき役割は、限られてくる。
くらいがスローフードが果たせる役割であり、その運動の限界となる。
この果たすべき役割を、世界のスローフード組織がどう捉えているかを考えるとおもしろいことが見えてくる。それは国柄によっても、スローフード運動の目的や果たすべき重視課題が異なっているということだ。
イタリア、フランスは食を文化(質)として捉え、アメリカやイギリス、オーストラリアなどのアングロサクソン系は、食を資源(量)として捉えている。この違いは食を「文化」として捉えるか、「資源」として捉えるかの違いともいえる。そこに民族の歴史性があり、国家戦略に色濃く反映されているのは、周知のことである。
しかしいずれにしても、どの国もスローフードを声高に叫んで、ファストフードを破壊するような活動はしていない。おそらくスローフードという言葉の魔力を過信していないからであろう。本家のイタリアでもスローフードなる言葉を知らない人が、圧倒的だというから、恐れ入る。
話を日本に戻そう。
現在の日本のスローフードは地産地消ぐらいにしか思われていない。しかも日本では、農産物自体に地域の特性が薄れているから、スローフードはイメージ商法になりかねない。日本の農村は同じような施設と仕組みを作ってきたから、個性豊かなイタリアのマネをして成功することは、まず不可能である。
しかしチャンスはある。独自の農産物はなくとも、誇れる郷土料理は今でも残っている。この個性豊かな郷土料理を、全国区、あるいはグローバルにまで展開できるならば、俄然スローフードは輝きを増すことになる。
スローフードのファスト化という第3の選択肢が浮上し、スローフードを大きな産業に育て上げる、一大飛躍もありえるのだ。過疎村からの郷土食が大ヒットするのは、別に珍しいことではない。
さらに、たとえスローフードが社会のファストなパラダイムを変えることができなくても、地域の産物に一縷の光りをあて、食の見直しのきっかけをつくり、子供達には食育の大切さを知らしめる官民一体の活動を生んできたのは事実である。ささやかではあるが、社会の一隅に光りを投げかけたことは確かなのだ。
したがってスローフードがフリーハンドで、無力を嘆き、ファストフードの所業に降参するというような単純なことではない。この点を誤解しないでいただきたい。
しかし嘆いていても何も始まらない。まずは理想を高々と掲げて、できる事からやっていこう。その行動指針は2003年の「スローフード・にいがた」立ち上げ宣言文に掲げられている。もう一度復唱しよう。