2007年06月10日 13:31
最近、「スロー」という言葉がよく話題になる。スローフード、スローライフ、スローエネルギー、スローアグリー、スローボディ、スロータウンなど、「スロー×××」が日常的に頻繁に出てくる。しかもあたかも待ち望んでいたかのような時代のキーワードとして、多くの人々の心を捉えて離さない。
とくにスローフードには関心が高く、様々なレベルでの運動が始動している。日本でもSFJ(スローフードジャパン)なる統括組織も設立され、全国で45ほどの正式な協会支部(コンヴィヴィウム)が雨後の竹の子のように生まれ、それぞれの活動を開始している。ここ新潟でも多くの仲間が集い、議論して独自の活動を展開している。
では何故、今、「スローフード」なのだろうか。「スローフード」が秘める戦略的な意味とは、一体何であるのかを、時代の背景を通して俯瞰して、探ることにする。まず「スローフード」というキーワードが世の中で輝き始めた時代背景について考えてみよう。
などなど、まさに時代が抱える閉塞感(ファストモード)の裏返しの願望が、人々を「スローフード」に向かわせている。
しかもこの背景にあるメガトレンドは次の3点に集約できる。
<その1>若者から高齢者が動かす時代がきていること
<その2>農業中心の生活革命が都市を動かしていくこと
<その3>行き過ぎたファストシステムを是正する第3の道が急速に広まること
ポイントは、「高齢者」「農業社会」「第3の道」である。この3点に力を与え、推し進める言霊が「スローフード」なのである。この言霊が非常に魅力的であるのは、スローフードが持つ戦略性と生活に密着した事柄が、人々や行政にある種の期待感を抱かせているからだ。
しかもスローフードとは、食に関わること以外にも時代に警告を発する言霊なのである。よくスローフードとスローライフの定義の違いを問われるが、目指すところはほぼ同じであり、同義語とみて差し支えない。
そのスローフードについて、今更記すことでもないが、おさらいの意味で確認しておこう。スローフードの概略概念は以下の通りである。イタリア・スローフード協会が定めた定義が運動の基本をなしている。
言い換えれば「食育、種の保存、食の多様性を守る」ことをプロモートする代理店の名前が、スローフードなのである。食べのものの名前ではない。この辺がかなり誤解されている。文化活動をプロモートしながら、ビジネス活動に結びつけるところがユニークなのである。この点を十分理解することが肝要だ。
以上の定義をかかげた45ほどのコンヴィヴィウム(支部)が、ここ3年の間に雨後の竹の子のように全国的に立ち上がったことは前述したが、その規模は世界の屈指に入る。しかも熱しやすく冷めやすい国民性からしても、普及のスピードの速さは納得できるが、それにしても一躍ブームになったのには驚かされる。
では何故スローフード運動が日本で急速に、広がりをみせているかの背景をみておかねばならない。その背景の一つとして、日本社会の「食の迷宮からの脱出」の願望が隠されていることに突き当たることになる。
この「食の迷宮からの脱出」という時代の課題が、実はスローフード運動を奮い立たせているのだ。その課題についてさらに述べておこう。
食べ物や飲み水がどこから来るのかさえ知らないほど、我らの食生活は他人任せになっている。家庭の食卓もかなり荒れているという。
さらに我らの食が、経済や政治のシステムの中で、がんじがらめなっていることにも、大方の人々は無頓着でいる。食材の自給率が40%を切っても、まるで他人事でしかありえない悲しい現実があり、諦めと無関心の無間地獄に我らは追い込まれている。
ファストモードに毒された、我が日本のそんなブラックボックス的な状況に追い込まれた絶望の中で、一部の人たちが「このままで、いいはずがない!」と奮い立ち、立ち上がた。それがスローフードを基幹とする、食育運動や地産地消運動といった食の回路の構築の動きなのだ。それはとても小さな試みで、とるに足らない運動である。
しかしその運動には、もしかするとブラックボックスになってしまった「食」の世界をこじ開けて、新しい食と人間の関係を築きあげるパワーが期待できるかも知れないと、多くの人が気付き始めた。さらに村おこしや帰農組の受け皿になるのではないか、と連鎖の輪は広がりを見せ始めているのである。ここにスローフードがもてはやされる深遠で社会的な背景がある。

この気付きを、供給者側(生産者、加工業、流通業)と消費者(生活者)側に分けて考えてみると、外的要因(供給者側の責任)と内的要因(これは我ら自身の責任です)の2面から、他人事でない食のあり方を見直すことが可能となる。
まず供給者側の取り組みをみてみよう。
1、波及するトレーサビリティ
→2002年頃から、食肉、野菜、米、牛乳、卵などの2、無添加宣言
→1部のベンダーやコンビ二では、添加物の無添加を宣言している。3、契約栽培や管理栽培で、履歴の明らかな食材の確保に懸命である。
→農業生産法人などへの参加で、安定した品質を確保する動きをする。4、生産、加工現場を公開
→現場公開を積極的にすすめている。5、食育活動に力を入れている。
→親子料理教室や学校の課外授業に、積極的に関わろうとしている。6、ファーストカジュアルなメニュー開発に積極的である>
→顔のみえる厨房や加工過程のオープン化。7、ポジティブリスト制の導入による品質管理体制の確立
→安心、安全の保証制度への取り組み
など、供給者側は「おいしさ」はもちろん、「安全」や「安心」といった価値情報の提供に積極的な姿勢を見せ始めている。またそうしないと、市場に受け入れてもらえないという時代の事情があるからだ。
ただしマスプロ、マスセールスのスタンスを変えることはなく、あくまでも技術的に管理した世界での、安全性や価値観の提供が中心である。
次は消費者(生活者)側の取り組みをみておこう。
1、他人任せ状態から、少しでも自分達の手の中に、食べものを取り戻そうという動きや意識が芽生えている。
→地産地消運動に加わり、農との距離を縮めようとしている。2、食べものだけではなく、食べものの向こうにある自然環境や、作り手の顔にまで思いを致す人が増えている。
→食育学習が盛んになり、農業体験会も活発化している。3、手作りの食卓で、荒れた生活を正し、健康を取り戻す人が増えている。自分の体は、自分の食事で守ろうという意識が高まりをみせている。
→サプリメント生活の見直し。4、ただし圧倒的多数の人々は、現在の食事情には無頓着である。
→食に対する価値観が多様化している。
などなど、多士済々な面々が存在しているのが現状だ。
しかしここではっきり言えることがある。それは供給側から一方的に与えられる安全や健康情報に、甘んじていく事への反省が確実に芽生えているということである。

とくにトレーサビリティに対しては、無味乾燥なイメージを持ち、いくら情報が開示されたとしても、普通の人には「他人事」の世界というしらけた感じは否めないのも事実だ。「安全」はデーターで証明できるが、「安心」はそれだけでは得られないのが悲しい現実がそこにある。
「供給者側がいくら安全をうたっても、それが信用されないと、消費者側の言葉である安心がついてこない」と考えるのは、大方の常識なのである。しかも食の迷路から脱出する手立ては、相互の信頼と安心の醸成しかないとすれば、「ポスト・トレーサビリティ」というようなウエットなシステムが必要になってくる。その媒介の役目を担うと期待されるのが、スローフードという文化活動なのである。まさにスローフードは時代のキーワードとみなされているのだ。
いわば「生産者側」と「消費者側」の定性的な新しいつながりを可能にすることを、スローフード運動はめざしているとみていいだろう。さらに食を通して、われらの回りの森羅万象すべてとの関係性を見直そうとするのも、スローフードが目指す世界観である。
スローフードは地味で、手間がかかり、時間もかかる運動だが、目指す方向を指し示すことにより、我らは自分の手に食べものの連鎖を、取り戻す手立てを得ることが可能になるはずである。
スローフードを教条的にあまり難しく考えないでおこう。そして食べ物の加工の部分を自分の手に取り戻すために、市民農園や庭先、プランター栽培などで少しでも食べものをつくってみよう。ぶらりと散歩しながら、生産者の人と話してみよう。
休日には近くの田んぼを子どもと散歩して、1部であっても、食べ物のできる回路を自分でたどることから始めてみよう。それだけでもずいぶんスローフードな生き方ができるものなのだ。
食の迷路は、我らが便利さばかりに目を奪われたことから始まった。便利さの追求はある時期必要なことであったが、現在の問題の広がりや深刻さを考えると、我らは視点や発想を転換する時期に来ていることは確かだ。多くの供給者側も、その点には気付き始めて、存続をかけて取り組もうとしている。
伝統や地域の中に生きる知恵を学び、自ら考え工夫するモノ作りの喜び、生命の連鎖に生かされている自分自身の存在の実感を体験する。それらに技術や科学が寄与できるような新しい回路の関係を、供給者側と消費者側が築いていくことが、実は最も大切な次世代の処方箋だからである。
しかも地方の再生や持続可能な未来社会を作っていくには、このスローフードの哲学が必要になる。スローフードの向こうにみえる、21世紀の新しい町や村やコミュニティについては後述するが、団塊の世代やその孫の若者たちが、祖父母が守り通した山村や棚田に戻ってくる時代である。
スローフードはイタリアが発祥だが、そのイタリアの定義を鵜呑みにした運動から、日本民族独自の活動へと変貌を遂げていくのは時間の問題である。日本の45ほどある協会がどのように舵を切っていくかを、期待をこめて見守っていきたいと思う。

SFJが総括するスローフード支部(コンヴィヴィウム)は全国に45ほどある。20名以上の会員が集えば、誰でも、何処でも、何時でも、会費を払えば正式な支部を作ることができる。団体会員は認められていないため、個人会員が中心の構成になる。
ただし会員になっても、特権が与えられる訳ではない。いくらかの協会との契約事項がある。その主な事柄は、次の通りである。
などなど、縛りがきつくなっている。これは企業の横暴を抑えるためである。したがって「SLOW FOOD」を冠にしたビジネスを目論んでいるサイドは、この契約で一挙に縛りを受けている。文化活動を旨とする協会の自縛ルールと考えていいだろう。
さらに今のところ各地に分散する支部の連帯や活動内容が、SFJでコントロールされて、共有化されているわけではないが、各部分科会が立ち上がり、やがては「ゆるやかな連帯」がはじまることになる。
しかしスローフーダー達の多くは、独自性を重視する人が多く(イタリアの設立がそうであった)、本部でコントロールされることを極度に嫌うから、マニュアル的な連帯がうまく機能するかは、時間をかけてみてみないと分からない。スローフード運動は、「ばらばらだけど、ゆるやかに繋がっている」ことが一番大切だから、その1点を忘れると、もはや多様性と独自性を尊ぶスローフードにはならない。
こうなると各支部の盛隆はリーダーの力量にゆだねられる。
力量とは
いわゆる「ヒト、モノ、カネ、ノウハウ」を具現できることが求められる。スローフードを単なる文化活動のネタとしてしか考えていないリーダーには、手に負えないことになる。とくに「資金調達力」は現実問題として重要となるから力量が問われる。
日本のどこの支部も資金繰りに苦労しているはずである。ビックスポンサーがつかない限りは、個人会員の会費だけでは、とても運動は維持できない。
ある支部では、一部のヒトが身銭を切って活動しているようだ。総括するSFJですら資金繰りに頭を悩ませていると聞く。イタリア本部も出版、博覧会、寄付などで資金を調達しながら貧しい国への補助も行っているが、グリーンピースよりも苦労は絶えないようだ。運営資金をどうして調達していくのか。この課題が大きくのしかかっている。
さて話を日本の45の支部活動に戻そう。各支部の現状をつぶさに視察したわけではないが、各支部にはその活動にかなりの温度差がある。
発足してから元気に活動や情報発信している支部。立ち上げたのはいいが、はや、挫折して「こんなはずではなかった」とぼやいている支部。毎年入れ替わる激しい会員の増減に悲鳴をあげている支部。などなど今のところ、華やかな割には、肝心の好話題がのぼってこない。次号はその辺の実情を我が新潟の現場からレポートする予定である。
